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交換から生じる霊的な力の謎〜『力と交換様式』

◆柄谷行人著『力と交換様式』
出版社:岩波書店
発売時期:2022年10月

柄谷行人が2010年に刊行した『世界史の構造』の続編ともいうべき本。というより柄谷が前世紀末から手がけてきた一連の仕事の集大成といってもいい本です。ベースとなるのがカール・マルクスの考え方であることは言うまでもありません。

マルクス主義においては、社会構成体の歴史は建築的な比喩で表現されてきました。生産様式が経済的な土台にあり、政治的・観念的な上部構造がそれによって規定されるという見方です。

柄谷は、社会構成体の歴史が経済的土台によって決定されるという認識には同意しつつも、その土台は生産様式だけでなく、交換様式にあると考えます。

交換様式には次の四つがあります。

 A:互酬(贈与と返礼)
 B:服従と保護(略取と再分配)
 C:商品交換(貨幣と商品)
 D:Aの高次元での回復

交換様式Aが支配的な社会構成体は氏族的共同体です。交換様式Bは、アジア的国家、古典古代的国家、封建的国家など。交換様式Cが主流になるのは、資本主義的社会です。
そして交換様式Dは交換様式Aを高次の次元で回復するものと考えられていますが、現実には存在せず、理念としてあるものです。ここまでが『世界史の構造』で描き出したチャートでした。

ここで、もう少し現実社会に沿って具体的に考えるとすれば、次のようにまとめることができると思います。

人類の先進的とされる社会は、紆余曲折を経て現代の高度な資本主義社会を構築した。けれども旧ソ連の崩壊後、一人勝ちしたと思われた資本主義にも様々な綻びが見え始めている。貧富の格差の拡大や環境破壊などの問題である。そこで資本主義に代わる新たな社会のビジョンが模索されるようになった。柄谷のいう「交換様式D」とは、そのようなものとして浮上する──。

では、交換様式Dの社会をいかに構想すべきなのでしょうか。これが最重要の問題です。本書のメインテーマももちろんそこにあります。

マルクス主義が唱えた共産主義は、柄谷の文脈では交換様式Dを実現するものとして考えられたはずです。しかしマルクスはもっぱら生産様式を重視したため、マルクス主義批判に対してうまく説明できないことも多かった。ゆえに最終的に、社会の下部構造を経済的にみる考え方じたいが否定されることとなりました。

しかし柄谷によれば、マルクスは『資本論』のあとに、社会構成体の歴史を交換様式の観点からみることを始めていました。が、まもなくマルクスが死去したため、そうした視点は注目されずに今日に到ったのです。本書における柄谷の仕事は、マルクスがやり遺したことを引き継ぎ発展させることであると言っていいかもしれません。

さて、マルクスは商品の価値を「商品の内在的精霊」すなわち「物神」として見出しました。それは交換から生じる観念的な力です。物神。交換様式から生じる霊的な力。それは同時に貨幣や資本についても生じます。そうした力の謎を解くことに多くの紙幅が費やされます。

 ……科学的な態度とは、たんに霊を斥けるのではなく、霊として見られるほかないような「力」の存在を承認した上で、その謎を解明することである。(p54)

社会構成体は、A、B、Cの交換様式の結合体としてあり、どれがドミナントであるかによって、歴史的段階が区別されます。Dは、Cが支配的となる資本主義社会のあとで出現するような社会の原理だといっていいでしょう。Dは、BとCが発展を遂げた後、その下で無力化したAが高次元で回帰したものと考えられるのです。

マルクスはその鍵を氏族社会に見出しました。マルクスが重視したのは、氏族社会における諸個人の平等や相互扶助のみならず、諸個人の自由(独立性)でした。それは必ずしも生産手段の共同所有ということから来るものではありません。生産力から見て、より未開である氏族社会では、下位にある個々の集団が上位に対して半ば独立しています。それをもたらすのが互酬交換つまり交換様式Aです。それが「兄弟同盟」をもたらすとともに、集権的な国家の成立を妨げるわけです。

そこでもう一点重要なのは、マルクスが私的所有と個人的所有を区別したことです。彼は私的所有の廃棄を提唱し、それに代わって個人的所有の実現を構想しました。個人的所有とは「協業と、土地や労働そのものによって生産される生産手段の共同所有とを基礎とする」所有のあり方をいいます。マルクスのいう共産主義とは、個人的所有にもとづく共有、つまり共同体に従属しない唯一者たちの連合によって成立する共同体にほかなりません。本書の文脈でいえば、古代氏族の互酬交換による自由平等の高次元における復活ということになります。

ただしここで厄介なのは「Dは人間の意志あるいは企画によって到来するものではない」と柄谷が確言していることです。それはいわば「向こうから来る」と。フロイトの無意識の理論を援用した物言いですが、ブロッホなら「未意識」「希望」と呼ぶものでしょう。

結語といってもいいこの認識に対しては、違和感あるいは物足りなさを感じる読者が一定程度いるのではないかと思います。少なくとも私には完全には納得しがたい。あるいは難解と言い換えてもいいのですが。
人為的なやり方では実現しないなら、私たち現代人はどうすればいいのでしょうか?

というわけで本書の結論部分だけを抜き出せば、世直しの書としてはいささか拍子抜けする点があるのは否めません。とはいえ古今東西の文献を縦横無尽に参照した本書の記述には豊かな抽象力というべきものが宿っていることも確かです。柄谷本人が朝日新聞のインタビューで語ったように文芸批評の書として読むならば、なるほど大いに楽しめる大作ではないでしょうか。

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