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わたしの向田邦子

文芸翻訳を学ぶ身としてはいささか言いにくいことなのだが、これまでの長い会社員生活でもっぱら読んでいた本といえば、エッセイである。その理由をひも解いてみると、朝晩のラッシュに揉まれ、上司同僚クライアントへの愚痴を呑みこみ、『なるべく急ぎで』の一言に始終追われていた心身には、人生の浮き沈みやら古のファンタジーやら現代の世界情勢やらを受けつけるパワーが残されていなかったのだ。書き手は誰でも構わなかった。作家、役者、歌手、お笑い芸人、ドラァグクイーン、ジャーナリスト、実業家、はてはネットで見つけた名もなきブロガ―まで、自分以外の人が、果たして何を面白がり、何に憤り、何を支えにしてこの大いなるルーティーンを生きているのか、自分と一体何が同じで何が違っているのかが知りたかった。そうそう、ソファっていつも洗濯物が山積みになってるから座れたことないよね、などと頷きながら、冴えない自分の日常に少しだけ誰かに寄り添ってもらうことで、ちょっとだけ元気になっていたのだ。

そんな自称エッセイマニアのわたしが選ぶエッセイスト部門MVPは、向田邦子である。

昭和四年(一九二九年)に東京で生まれた向田邦子は、父親の転勤により各地を転々として育った。実践女子専門学校を卒業後、映画雑誌の編集者などを経て、ラジオやテレビドラマの脚本家として世に広く知られるようになる。小説やエッセイの執筆も手掛け、昭和五十五年(一九八〇年)、連作短編小説で直木賞を受賞したが、その翌年、五十一歳の若さで航空機事故により急逝した。

初めて彼女のエッセイを読んだのは、十年ほど前だった。全国各地で過ごした少女時代の記憶を綴った二十四篇の随筆集『父の詫び状』(一九七八年)である。

言葉を失うほどの衝撃だった。一遍に溢れんばかりのネタである。それらは時空を超えて、縦横無尽に配置されているのだが、最後には、すべてがあるべきところにあったのだと腑に落ちるのだ。風景や人物や小物にいたるまで、そのどれもが驚異的な記憶力で緻密に描写され、どのページからも昭和初期の時代の空気が匂い立つようである。物質的には貧しくとも、その分密だった家族や近隣との交わりに潜む人間の心の機微のようなものが、多感な少女と大人になった彼女の両方の視点からあぶり出される。読む者はみなジェットコースターに乗せられ、様々な景色の中を飛ぶように進みながら、笑ったり、はらはらしたり、気がつくとほろりとさせられたりするのである。

向田邦子が描いた昭和のお茶の間が消えて久しい。しかし彼女のファンを公言する人は、世代を問わず今でも驚くほど多い。一昨年八月に文藝春秋『オール讀物』で組まれた没後四十年の特集では、作家や劇作家はもちろんのこと、ラッパーや漫画家、モデル、映画監督など、彼女を直接知らない世代が、それぞれの向田邦子を熱く語っている。

向田作品に出てくるのは、今のそれとはかけ離れた時代を生きる市井の人々
だ。にもかかわらず、亭主関白で不器用な父親に、慎み深くもちょっとそそっかしい母親に、ふと自分の両親が重なる。それは彼女に、あるがままをよしとする温かな慈愛に満ちた眼差しと、決して誰のことも批評しない、ぶれない芯の強さがあるからにほかならない。『父の詫び状』が出版された後、そこに描かれた父親が自分の父親と同じだと伝えたい人々が、こぞって自宅に電話をかけてきたという。日本人のDNAを強く震わせるその力は、時代を越えて今もなお生き続けているのだ。

向田邦子は生涯独身だった。長く恋人だった人には妻子があった。独りになった彼が病を得てからは、自分の家族にも誰にもなにも知らせぬまま、日々家に通ってその人を支え続けた。今から半世紀近くも前の社会で、その覚悟はどれほどのものだったか。そのこころを思いながら彼女のエッセイを読むと、わたしにはまぶしくて、気がつくとなぜだか涙が出てきて仕方がないのである。

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