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誘拐されて旅行(プラトニック)第1話 プロローグ

 誘拐、という言葉がある。文字にするとなんともひょうひょうとしていて、誰かが意識的に攫ってきたというよりは、流れ着いてきたといった雰囲気のほうがあっている気がする。

 僕がまさにそういう感じだった。

 ある日お姉さんに攫われた。お姉さんは昔から知っている人で、遊んでもらっていた頃は仲が良かったと思う。今は正直何を考えているかわからない。

 誘拐にどんなプロセスがあるのかは知らないが、コレが王道な誘拐でないことは分かる。

 お姉さんは宣言した。「いっくんをさらいます」と、僕も返した「かなえ姉に誘拐されます」と。それはどう考えても誘拐の名前ではなく、愛の逃避行、駆け落ちと呼んだ方が誰かに話すときには伝わりやすい。なぜなら誘拐は一方的にされるもので、そこに相手の容認が混じれば、それはもう誘拐ではなくなってしまう。

 僕が容認しているだけならまだしも、お母さんが許可した時点で、完全に誘拐ではないのだが、かなえ姉は誘拐だと言い張った。でも、と続けようとしたら「つねるよ」と言って睨みつけてくる。

 小さい頃から悪さするとつねられてきたが、いまだにその痛みにはなれない。焼きながらちぎるかのようなその痛みは消えた後しばらく、空気を感じるたびにそれをされたことを全身に思い起こさせる。痛みももちろんだが、全身がひゅっとなるその感覚が何より苦手だった。

 おそろしさを抱いたあとでその睨みつける目が素敵だなと思った。

 ミラー越しに睨みつける彼女。丸い赤ぶちメガネの奥にある鋭い猫目はさらに鋭さを増し、じっと見ているとメガネが割れて飛び出してくるんじゃないかという勢いだ。

 車がトンネルを抜けると彼女はボタンを押した。するとすぐに車内に風が舞う。今さっきまであった屋根はどこかにしまわれ、窓がこころもとない感じになった。じっと見ていると、「窓危ないからしまって」とまた睨みつけられる。「はいはい」と仕方なさげに返したが、やはりその細い目はいつまでも見ていられるような魅力がある。

 僕は後部座席に座っていた。後部座席はいい。かなえ姉の後ろ姿が見える。昔の彼女と重ねて見る。昔と同じ髪型だったらだいぶバサバサうるさくてオープンカーじゃお話もできなかったかな。僕はロングヘアの彼女の方が好きだったけど、今のショートカットのかなえ姉も素敵だ。猫目とよく似合っている。
 それを言うことはできない思いを抱えた僕とかなえ姉は二人で旅、いや誘拐をしている(されている)。本来なら二人なら僕は助手席に座るのが普通なのだけど、僕はなぜか助手席の後ろ側に座らされていた。

 もちろん最初は何も考えずに横に座ろうとした。けどかなえ姉が「それはちょっと......ごめん」と暗い顔をしたから、僕は何も言わずに後部座席に座った。

「あーあ」と前方から吹きつけてくる風にため息を預ける。

「え? ごめん聞こえない」
「なんでもないよ」
「え? なんて?」
「なんでもないってば」
「あーもう全然聞こえない! もうすぐしたらパーキングエリアに着くからそこで聞くねー」

 やっぱり横に座ってもらうべきだったかなと言う彼女の声はせつなげで細かったけれど、しっかりと聞こえた。

 だからパーキングエリアでその話を振られたときに「なんで横に座らせたくなかったの?」と聞いてみた彼女は一瞬目を見張って、でもすぐに細くなって、それから僕を見た。

「子どもはずるいよ......大人から聞かれたくないことを引き出すのが上手いんだから」

 まるでスペードの3ね、と笑う彼女。

「言いたくなかったら言わなくて良いよ」と返すと彼女は持ってもいないのに、タバコを吸うみたいにピースサインの裏側を唇に当てて、離して、唇を尖らせて息を吐いた。

 彼女が高校生の頃からの癖だ。同じ頃に彼女は僕と遊んでくれなくなった。僕はそのとき小学校を卒業したばかりで「高校生になったらいろいろあるのよ」と言うお母さんの言葉を信じるしかなかった。

「まだ、乗ってる気がするから」彼女は言った後で空想のタバコをまた一本吸った。箱から取り出したり捨てる仕草はないから、同じのを吸っているのかもしれない。

 誰が? とは聞きたくなかった。それはこの誘拐され旅行の終わりに聞くべき言葉だと思った。

 彼女から「誘拐されてくれない?」と提案されたのは高校最後の夏休みに入る3日前。彼女は突然家にやってきて、久しぶりというお母さんの言葉もそぞろに僕の部屋にやってきていきなりそう言った。

 いきなりすぎてやってたゲームを落とした。ゲームボーイアドバンスは蓋が外れて、中の電池が飛び出して、朝早く目が覚めてからずっとやってたデータが消えた。時刻は午後になって間もなかった。まだ時計の鳩が鳴いている途中だったと思う。

 そのまま彼女に腕を引っ張られて、お母さんの前に二人並んで座ったかと思えば開口一番に「いっくんをさらいます」と言うものだから、僕もお母さんもびっくりした。口をあけたまま塞がらないお母さんがその顔のまま僕を見たので「かなえ姉に誘拐されます」と言うしかなかった。

 僕が言うとお母さんの頭の中でエンターキーが押されたのか口は閉じられ、「うん分かった。行ってらっしゃい。気をつけてね」といつもの調子で言った。まるで帰ってくる保証があるかのように。それはやはり誘拐ではないような気がするのだが。

 そのときはまぁ大人がついてくれるからいいかと思ったのだろうと考えていたが、今思い返してみればお母さんの表情はとても悲しそうだった。息子が誘拐されること云々というよりは、かなえ姉のことを心配しているようだった。

 僕はとりあえず数日分の着替えを準備した。お母さんはニヤニヤしながら、いつまでの旅になるのかわからないからと通帳とカードを渡してくれた。中には100万近く入っていて、律儀にオトシダマチョキンと表記されていた。お母さんは毎年のお年玉をちゃんと貯金してくれていたのが意外だった。何か欲しいものをねだるたびに「お年玉貯金から引いとくからね」が口癖だったのに。

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