見出し画像

今でもバスの降車ボタンを押したい話

突然だが、日常生活にボタンはたくさんある。
バスを降りる際にお知らせする降車ボタン、横断歩道の歩行者信号を変える歩行者用のボタン、エレベーターの行き先を決めるボタンや入院患者のナースコール…などなど

僕はボタンを見つけると、とにかく押したくなる。
数ある日常生活のボタンの中で、バスに乗ってる際の降車ボタンを特に押したくなる。
めっちゃ押したい。小さな子供があのボタンを押したがっている風景をよく目にすると思うが、あれは僕の方が押したい。
なんなら小さな子供が押そうとしているのを遮って自分が押したい。

「ママ~。ボタンあたちが押す~。」
「はいはい。じゃあ押しなさい。」

とかなんとか言ってる間に自分が押してやりたい。
そして、ボタンを押して

「ふっふっwwごめんwww僕が押しちゃったンゴねwww」

って言いたい。
だって小さな子供より絶対僕の方が押したいんだもん。
24歳(自称)もボタン押したくなるんだもん。

でも、とにかく闇雲に押したいわけではない。
バス停があるたびに闇雲に押して迷惑をかけたい訳ではない。
運転手さんを困らせたくない。僕はこう見えて、迷惑な奴、マナーのなってない奴ではない(はず)。
ここが小さな子供との違いだ。分別があるのだ。
僕は然るべきタイミングで正しい使い方をしたい。
正しいタイミングで子供より早く、悦に浸ってボタンを押したい。

残念だったな。子供たち。僕は君たちより、正しい判断で行動できる。
そして尚且つ、素早くボタンを押すことができるのだ。
悔しかったら僕を超えてみるがよい。あっはっはっは。


あと、自分がもし入院患者だったら、ナースコールを押してみたい。
めっちゃ押したい。連打したい。
でも迷惑かけたくない。分別があるので連打はできない。
然るべきタイミングでちゃんと悦に浸って押したい。

だけど、バスのボタンの押したい欲求には敵わない。
なぜなら他の乗客との競争感があるから。
横断歩道のボタンもナースコールも他人と競争して押すことはないだろう。
しかし、バスのボタンは多い時で20人近くがあのボタンを押す権利がある。
そしてボタンを押す瞬間は競争になる。老若男女交えた大競争だ。

日常生活でそんな競争はあるだろうか?
子供や良い年こいた大人、老人すべてが参加する権利を得た仁義なき戦いなんてなかなかない。
本命はきっと小さな子供だ。みんな小さな子供に押してやろうって空気感になるだろうし。それとも、いつも空気を読まないで押してくる、あのお婆さんも対抗馬になるだろうか。見逃せない戦いだ。

そこで、颯爽と一人の男がボタンを素早く押す。
「ピンポーン」
そう。何を隠そう、僕だ。
小さな子供や老人、調子に乗った若者、すべてを差し置いて、素早く気持ちよく、然るべきタイミングでボタンを押すのだ。

今後、バスの降車ボタンを押すダービーがあれば、僕を本命で選んでくださいね。
空気読まないで押す自信があります。

みんな、この欲求をどうやって抑えてるのだろう。
それとも降車ボタンなんて押したくならないのだろうか。そうなると、君たちと僕では体の作りが違うのではないだろうか。
僕は変われないことがたくさんある。
このように子供の心を忘れられない。変わることができない。これが新たな社会不適合の形だ。
参ったか。あっはっはっは。


ちなみに、ボタンを見ると押したくなる理由は、心理学的では「アフォーダンス理論」って呼ばれてるんだって。
ボタン自体が人に押すという行動を誘っているそうな…。
面白いよね!詳しくは調べてみてね。

じゃあまた。




クソどうでも良い事を書き連ねて、ロックンロールでギリギリ生きてます。