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坂口安吾『私は海をだきしめていたい』について ~逆説パンク魂の妙~

◇ すべてを包み込む慈愛の言葉 ◇

そこがいいんじゃない。

私の尊敬するみうらじゅん先生が、ちょっとアレな感じのトホホ映画を評する際に使用する決めゼリフである。
どれだけトンチキな展開のアサッテな映画でも、最後に「そこがいいんじゃない」って言われれば、なるほど「そこ」を個性として積極的に認める方向に割と素直にスライドできるから不思議だ。

それにつけても、これほど無敵なフレーズはそうはない、と私は個人的に思っている。
世には、数々の名言、名ゼリフ、ことわざ、金言、格言、アフォリズム等々が溢れており、求めればいくらでもラブ&ピースな言葉に出会うことができるが、私はここまで何もかもを包括しつつ人々をレスキューする、壮大かつ慈愛に満ちた、それでいてこんなに力まずに言える言葉はないのじゃないかと考える。

そこがいいんじゃない。

このフレーズを知ってからというもの、気持ちが沈む折々に拝借させていただいている。あるいは、気の合わない人間とどうしても関わらなきゃいけない時などにも応用している。
とはいえ、どう考えたって今の自分にはマイナスにしかなっていない出来事に対して、無理に「そこがいいんじゃない」と言ってみたところで「はっ?」って一瞬ならないでもない。けどとりあえず、そこにどうにかプラスにひっくり返す要素は見いだせないものかと必死で考えるようにもなった。
言ってから考える。大喜利のように。これが案外ミソで、ゲーム感覚で楽しめることも少なくない。「どこがどういいのさ」ゲーム。

ま、どこがいいのかわからなくても、一旦「そこがいいんじゃない」と言っておけば、トホホ映画と同じでなんだかそんな気がしてくることもまま。
ただしこれ、若い頃にはなかなか考えられなかったことだ。しかし年齢を重ねるごとに本当に「そこがいいんだよね」って思えることも増えてきた。なんだかんだ経験値を積み、裏の裏まで深読みしたり、一周二周回すクセがついてきたがゆえの「ツウ好み」的な感覚であろう。
この苦みがいいんだよね、このクセのある香りがいいんだよね、このツレナイ感じがいいんだよね、的な。

◇ 究極のポジティブシンキング ◇

かつて私は、一冊だけ小説を出版したことがある。
SMの女王様探偵とMの刑事が登場するミステリー仕立ての小説(『デッド・エンド・ヘブン』TOブックス)だ。
詳しい内容はさておき、SMを題材にしたことには私なりの意図があった。これはおもにMサイドに対し言えることなのだが、マゾヒストという性癖は、究極的に「そこがいいんじゃない」精神に溢れていると感じていたからだ。

鞭で打たれて痛くないのですか?
―― そこがいいんじゃない!

蝋なんか垂らされて熱くないのですか?
―― そこがいいんじゃない!

縄で縛られて苦しくないのですか?
―― そこがいいんじゃない!

かほど堂々たる「そこがいいんじゃない」も、通常なかなか出ないだろう。
この辛苦と快楽のボーダレス具合に大変惹かれるものがあった。
最高に最低な世界。最低で最高な世界。
そうだ、その通りなのだ。
幸不幸の線引きはあくまでも各個人で行うのであって、絶対的に定められた基準など本来何一つないのだから。
よしんばSMプレイを楽しまれるマゾヒスト方々のように、痛みも熱さも苦しさも、時には羞恥や不自由や屈辱さえも快楽に変換出来るとするならば、全方位的に生きることの輝きを見出すことが可能になるだろう。

これぞ、究極のポジティブシンキング。

「むしろ、逆に、かえって、あえて」などの副詞の類も多用しながら、既成概念にとらわれないパンクな逆説魂でロックンロールすれば、一見ネガティブな事柄も一瞬にして存在価値は爆上がり。
ある意味SMとはデフォルメされた過剰な状況とも言えようが、その分、この反転する「逆説魂」をわかりやすく描くには適していたと思う。

さてそんな風にして、のちに「逆説パンク魂」を表現したいがためにSMを題材とした小説を書くことになる私だが、そのずっとずっと前に、実はそうなるきっかけに出会っていた。
人生で最初にこの「逆説パンク魂」にふれ、心を打ち震わせたのは十代の後半に入った頃。
そう、まさに坂口安吾の『私は海を抱きしめていたい』に出会ったことが、私の人生観を大きく変えたのである。

ここで、ようやく本題に入るわけだ。
もしかしたらお気づきかもしれないが、私はとにかく前置きが長い。
毎回記事を作成するごとに、ちゃんと「なげーよ」と自ずから突っ込みを入れている。
だがしかし、今回はこう言ってみる。
そこがいいんじゃない。

◇ そしてすべてはゼロになる ◇

『私は海をだきしめていたい』は、初めて読んだ坂口安吾の小説である。
書店での気まぐれな立ち読みだった。
平積みされていた新潮文庫の『白痴』に収められた一作が、この『私は海をだきしめていたい』だ。私は文庫本をペラペラめくりつつ、なんとなく題名に惹かれたこの作品を最初に読んだわけである。

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私はいつも神様の国へ行かうとしながら地獄の門を潜つてしまふ人間だ。ともかく私は始めから地獄の門をめざして出掛ける時でも、神様の国へ行かうといふことを忘れたことの ない甘つたるい人間だつた。私は結局地獄といふものに戦慄したためしはなく、馬鹿のやうにたわいもなく落付いてゐられるくせに、神様の国を忘れることが出来ないといふ人間だ。

のっけからこれよ。
私はこの冒頭部分の行ったり来たりのブランコのようなリズムに揺さぶられ、そして酔った。まだそれほど文学というものに耐性のなかった子供の私は、安吾の毒気混じりの文体に脳を痺れさせ、そのままその場ですっかり酩酊してしまったのである。
ただ、初めて読んだこの時は、自分が何にそれほどやられたのかには気づいていなかった。
この小説全体を覆う「そこがいいんじゃない」的「逆説パンク魂」の妙にこそ心を掴まれていたのだとわかったのは、自分が人生を何度も大きく踏み外し、絶望し、それなりに痛い目にあってなおまだ無事生きていることを自覚した後だったように思う。

それはさておき『私は海をだきしめていたい』とは、一体どんな話なのか?要約すると、以下のようになる。

*「私」は不感症の女と同棲しており、その女には色々問題あるんだけど、そもそも自分だって問題だらけなんだし、そんな二人が一緒にいるのは不毛で虚しいかもしんないけど、実は、むしろ「そこがいいんじゃない」と思ってたりする、というお話。*

ぶっちゃけ「あらすじ」と言えるような話の「すじ」はない。
『私は海をだきしめていたい』は、「私」が、「そこがいいんじゃない」とばかりに、あえて肉体の感動のない不感症女とrock and roll(性交渉)し続けながら、あらゆる逆説をアノ手コノ手でブンガクし、ひたすらパンクな哲学を語る独白小説である。

私はずるいのだ。悪魔の裏側に神様を忘れ ず、 神様の陰で悪魔と住んでゐるのだから。
私は悪人です、と言ふのは、私は善人ですと、言ふことよりもずるい。私もさう思ふ。でも、何とでも言ふがいいや。私は、私自身の考へることも一向に信用してはゐないのだから。

「私」は神様も悪魔も慕っていて、そんな自分を悪人だと思ってるし、悪人だと自分で言う「私」をずるいとも思っていて、でも自分で悪人だとかずるいとか言う「私」のことなんか、結局自分自身全然信じてないんで、なんとでも言ってくださいよ、ってわけだ。
どないやねん。
このぐるぐる回って最終的に「全部ゼロ」にしちゃう感じが虚無主義なんて言われるゆえんなのかもしれないが、結局、安吾のこんなところがいいんじゃないって、私は思っている。
あれもアリ、これもアリで、結果全部ナシにしてくれるから清々しい。

女の虚しい肉体は、不満であつても、不思議に、むしろ、清潔を覚え た。私は私のみだらな魂がそれによつて静かに許されてゐるやうな幼いなつかし さを覚えることができ た。
私は女の淫蕩の血を憎んだが、その血すらも、時には清潔に思はれてくる時 があつた。
私が肉慾的になればなるほど、女のからだが透明になるやうな気がした。それは女が肉体の喜びを知らないからだ。私は肉慾に亢奮し、あるときは逆上 し、 あるときは女を憎み、あるときはこよなく愛した。然し、狂ひたつものは私のみで、応ずる答へがなく、私はただ虚しい影を抱いてゐるその孤独 さをむしろ愛した。

「私」は、淫蕩なくせに不感症な女の虚しい身体こそが、自分のみだらな魂を許してくれる清潔なものであり、パッションに応じてもらえない性交の孤独さこそがむしろ愛しいとも言っている。

そうやって逆説に逆説を重ねたあげく、

私は昔から、幸福を疑ひ、その小ささを悲しみながら、あこがれる心をどう することもできなかつた。私はやうやく幸福と手を切ることができたやうな 気がしたのである。私は始めから不幸や苦しみを探すのだ。もう、幸福などは希はない。幸福などといふものは、人の心を真実 なぐさめてくれるものではないからである。

上記のように「幸福」と手を切ってせいせいし、「これからは不幸や苦しみを探すのだ」と意気込んでからの、

ところが私は、不幸とか苦しみとかが、どんなものだか、その実、知つてゐないのだ。おまけに、幸福がどんなものだか、それも知らない。どうにでもなれ。

はい、どうにでもなれ、出ました。
幸せに憧れるのやめて不幸を探すことにしたけど、やっぱ幸も不幸も知らんかったわ。って、どないやねん。

◇ 無頼だからいいんじゃない ◇

思えば、本屋で何気なく立ち読みをして坂口安吾にハマッたあの日を起点として今の今まで、私の心の軸はおおむね一貫していたような気がする。
つまりは、「何事にも決まった軸は存在しない」という軸だ。
頼るべきものが無いという意味での無頼
まさに無頼文学の無頼文学たるゆえんがそこにある。
虚無とかニヒリズムなんて言うと、投げやりでネガティブな印象もあろうが、虚無を極めればそれは思いのほか前向きであることに気づく。

虚無、すなわち「すべては無意味」と割り切れば、意味とか意義とか価値を見出さねばならぬという呪縛から解き放たれるし、かえってあるがままに目を向けて「そこがいいんじゃない」と肯定も出来よう。
十代の私がろくにその内容を解さないうちから、安吾の文章に一目惚れに近いような感覚で惹かれてしまったのは、おそらくそれを無意識に受け取っていたからだ。

昨今の我が国では、すっかり「生産性」なるもので人間の価値をはかられるようになってしまった。「生きているだけで価値がある」なんて、死んでも思わせてはくれない。
権力者が権力を保持し続けるために、大企業が儲け続けるために、一部の富裕層が勝ち組であり続けるために、この歪な日本的資本主義社会には、あらゆる(うさんくさい)「価値」という罠が張り巡らされている。
しかし、己の利益のために誰かが仕掛けた単なるトラップにすぎない無価値な「価値」を普遍的な軸だと信じ込まされ、無駄に自分を貶めている人々がどれほど多くいることか。

こんな時代だからこそ、坂口安吾的な「逆説パンク魂」で、意味も意義も価値も全部マボロシであることを意識すべきだし、軸なんて状況に応じていかようにもズラせるものだと知らなければならない。そんで、究極「幸も不幸も知らんがな」って感覚を、感覚として落とし込むことが大事なのではなかろうかと、最近とみに強く強く思った次第で。

さらに、もし自分のことを既成のありきたりな価値基準に当てはめて「ダメだな~」と思うことがあれば、誰もかれもがすかさず言うべきである。

そこがいいんじゃない。と。

◇ 私は海をだきしめていたい ◇

一見安吾先生も、ご多分にもれず、精神の浄化、いわゆるカタルシスのメタファーとして「海」を用いているのかと思えば、しかし「私」は、海をだきしめたいと言う。海にだきしめられたいのではなく、海をだきしめたいのである。
海をだきしめて肉慾を満たしたいけど、肉慾が小さすぎて悲しいという。
もはや海も肉慾も、そのサイズ感がさっぱりわからない。

やはり一筋縄ではいかない。

だけど極めてシンプル。
複雑だけど単純。
大きいも小さいもなくて、善も悪もなくて、好きも嫌いもないけれど、同時にそれらすべてが存在していて、秩序があって、混沌があって、嘘こそが真実より真実だと言い、だきしめたくて、だきしめられたくて、要するにすべてアリでゼロの世界。

それにしてもだ。
これほど寄る辺なき虚無を描いた無頼作家の作品が、なぜこんなにも心強くて頼りになるのだろうか。
これからも私は、無頼文学を頼りに、
たゞ一人曠野を歩いて行く。(※『続堕落論』より引用)

(END)

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