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朝活素読会に参加したときの私の頭の中 2024.2.15(3)

今回の話題(3)陽明学と朱子学

素読会に用いているテキストは
伊與田いよださとるさんが著したものなのですが、
伊與田さんの『大学』の解釈は、陽明学的だという話題になったんです。

「聖人学んで至るべし」の朱子学、「知行合一ちぎょうごういつ」の陽明学

理を体得して聖人になるために「学ぶこと」を重視する
「聖人学んで至るべし」の朱子学に対し、

陽明学は「学びは実践に生かしてこそ」という
知行合一ちぎょうごういつ」を旨としている
…と認識しています。

私がこれまでに私淑した先生や、
生き方や言葉から啓蒙を受けた先人のほとんどは
王陽明に思い入れがあるとされている方ばかりで、
若さと血気盛んぶりを自分責めに使っていた頃の私にとっても
陽明学派の力強さは憧憬の対象でした。

昨年の春ごろ、
2023年最初の旅先である滋賀県にうかがった際
近くにあると知った中江藤樹なかえとうじゅ記念館に立ち寄り
(旅人さんに車で連れて行ってもらいました)、
近くに「陽明園」があることを知りました。

その時は帰りの電車時間も迫っていたので、
いつか再びここへ来たい
今度は陽明園の中もはいってみたい
とパンフレットをもらいました。

悔やむなよ ありし昔は是非もなし ひたすら正せ 当下一念とうげいちねん

中江藤樹先生のうた、5年くらい前に知ってから忘れられません

朱子学のイメージは
理詰めで、
「段階を踏んでやっと世に参画していけるようになる」
みたいな考え方だから、
人生のうちに
「私はまだまだ未熟者なので責任を負えません」みたいな
挑戦への逃げ道を選んで安穏としている…というか、
モラトリアム期間がある印象を持っています。

やるぞ!と決めた後、
早速それに着手し始めるのではなく
着手するための環境を整えはじめるかんじ、
と言えば伝わるでしょうか。

…というのも、
私自身が商業高校で事務(仕事)の勉強をしたあとに
大学で日本文学を学ぶことを選んだとき、
これから過ごす4年間を「執行猶予」だと思ったんです。

そこから、「いつまで経っても一人前になれない」と、
モラトリアムを自分責めの口実にする時期に入るのですが

その頃に考えていたことって、
「はやく人間になりたい」とか
「私はまだ実践できるまでに至っていない」とか
「経験させてもらってありがたかった」という
謙虚さを装った責任回避傾向が
ちらほらしてたんだよな…
という思い出があるんです。

だから、「理詰め」といえば
文章で考えて体感を自覚しないあの頃の
「あたまで理屈を捏ねて、それを“言い訳だ”と自責していた自分」
を思い出しちゃうわけで…

歴史ある朱子学に、自分の身から出た
卑近なレッテルを貼っちゃってるかもしれません。
ごめんなさいです。

ともあれ、そんな経緯で
私のなかには
陽明学は「実践派」、朱子学は「修行派」
みたいなイメージがあります。

この「実践派」と「修行派」の対比を想像したとき
空海さんの密教の考え方に「陽明学」的イメージ
と最澄さんの「願文」での誓いに「朱子学」的イメージが
繋がりました。

2023年の旅で、空海さんと最澄さんに
教えてもらったことがあるんです。

いまの自分は「まだまだ」で、
正しい振る舞いができるようになるには
まず自分の準備が整ってから
と内側に向かう修行派と、

もうすでに手札はすべて揃っていて、
信じるべきは己の感覚だから
「心が動くなら、やるべき時は今だ!」と
理想実現への行動に駆り立てられている実践派。

本来、人生に準備期間なんてない
というのが
過去の私が自分を追い立てた信念であり
今でもそうだと思っていることです。
(今は、本番中とわかった上で
必要なときにはちゃんとだらけたり気を抜いたりする
ふてぶてさを身につけているつもりです
…たぶん。)


外側で喧伝されている「正解」にあわせて
理屈の上では正しそうな行動を「準備」として選び
「わたしはやっている」と自分に言い聞かせること

ではなく

「いま、ここ」の身体や心の状態に
意識を合わせること自体が
「整える」ということなら、

それは
「準備期間中」に一時的な集中で済ますようなことではなく
「毎日本番」の中に組み込まれるルーティンなんだと思いますし

毎日を本番として挑むことを
積み重ねていくうちに、
いつの間にか「準備が整っている」状態になるのが
自然の姿じゃないかと思います。


2024年2月18日 拝

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