歴史をたどるー小国の宿命(79)

1281年の弘安の役は、史上最大規模の軍勢が、二手に分かれて日本に押し寄せてきた。

まずは、文永の役と同様に、朝鮮半島から4万の軍が襲来した。

そして、本当であれば日本上陸直前に、朝鮮半島経由の軍と合流する予定だった主力軍10万人が遅れて、中国の寧波(ニンポー)というところからやってきた。

つまり、合わせて14万の大軍がはるばる大陸から海をわたってやってきたのである。南宋を滅亡に追い込んだフビライ・ハンは、その広大な土地に住む人たちを戦力として従えるわけだから、文永の役よりも軍団の規模が大きくなるのは当然の成り行きであった。

これだけの大軍を前にしたら、さすがの日本も敗戦は必至だと思われた。

ところが、また日本は天候に助けられたのである。

今の時代でも、私たちが夏に台風で被害を受けるように、このときもちょうど夏であり、当時の人たちも台風の直撃で苦戦したのである。

しかも、モンゴル人は、海に面していない内陸部で生活しているので、船を操ること自体不慣れであったはずである。そこが、決定的に不利な条件だった。遊牧民であれば船を造る技術さえないわけだから、戦争で疲弊した高麗や南宋の住民に急ごしらえで造らせていたが、果たしてどれだけの船が台風に耐えられたのだろうか。

また、北条時宗は、文永の役のあと、再度の襲来に備えて、沿岸部に高さ2〜3メートルの石塁を九州の御家人たちに築かせていた。

そのため、船で日本本土に近づいても、高いところから待ち構えられて弓矢で襲撃されたら、石塁に登る前にやられてしまう。

日本が平和でいられるのは、列島全体が海に囲まれていて、隣国と陸続きになっていないからだということが、この時代にすでに証明されていた。

博多湾に浮かぶ志賀島(しかのしま)と能古島(のこのしま)は、激戦の舞台となった。

大軍をものともせず、果敢に立ち向かう御家人たちの様子は、敵からも恐れられた。

4000艘もあったといわれている蒙古軍の船は、結局、台風にやられて200艘ほどに激減し、つまり、相手国はそれだけの死傷者を出して退散を余儀なくされた。

こうして、日本はまた防衛に成功したのである。











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