歴史をたどるー小国の宿命(82)

いつの時代も、対立する派閥は存在するわけで、醜い権力争いが起こるものだ。

もとからの北条氏一門の人間である平頼綱と、外様の立場である安達泰盛の対立は一気に激化し、北条貞時の執権就任の翌年に、安達泰盛のほうが敗れた。

きっかけは、平頼綱が、北条貞時に泰盛に関しての讒言を伝え、それをすっかり信じ込んだ15才の貞時が、安達氏討伐の命令を出したことによる。

1285年11月、いわゆる霜月騒動が勃発し、安達氏一族500名ほどや関係する御家人など多くの人が殺害された。もちろん、泰盛も追い込まれた末に、自害したのである。

仙台城跡が残る青葉山の東北大学植物園内には、「蒙古の碑」が今も建っている。

一説では、この碑は、北条時宗の右腕として、蒙古襲来に対抗した安達泰盛を追悼して建てられたのではないかといわれている。

また、泰盛の異母妹である覚山尼は、泰盛が自害しても無事に生き延び、安達氏一族の子どもたちを自ら庇護した。

そして、鎌倉の山ノ内に東慶寺を創建した。今の時代で言うDV(家庭内暴力)に苦しむ女性を救済する活動も行なったといわれている。

それゆえ、東慶寺が「縁切寺」とも呼ばれ、シンガーソングライターのさだまさし(かつてはグレープ)の歌にも取り上げられている。

泰盛の悲劇は本当に残念であるが、覚山尼が殺されずに済んだおかげで、今の時代にまで女性と子どもの救済の精神が受け継がれているのは、感慨深いものである。





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