【続編】歴史をたどるー小国の宿命(39)

秀吉は、自分が死んだ後のことも、きちんと考えていた。

秀吉は、まだ6才だった息子の秀頼に跡を継いでもらうのは難しいことも分かっていたが、かといって、家康に後継を委ねるつもりもなかったのである。

自分の死期が近いことを悟ったとき、秀吉は、五大老・五奉行制を立ち上げて、それぞれ次の者を指名していた。

五大老は、①徳川家康、②前田利家、③毛利輝元、④宇喜多秀家、⑤小早川隆景(のちに上杉景勝)である。

五奉行は、①石田三成、②浅野長政、③増田長盛、④長束正家、⑤前田玄以である。

家康と石田三成が、それぞれの筆頭であった。

五大老と五奉行の違いは、そもそも「大老」という呼び名が江戸時代に入ってからの後付けだったので、役割については諸説あるが、構成員の名前をみると、五大老のほうが実力では上であることが分かるだろう。

さて、その五大老の中で、秀吉に信頼されていた前田利家が、秀吉の死の1年後に病気で亡くなる。

前田利家の死によって、それまでは独断で動くことがなかった家康が、秀吉の遺言を守らず、それまでは禁止されていた大名の家族間の結婚や領地の取引を再開させたのである。

これに怒ったのが、小早川隆景の死後に、秀吉に指名されて五大老に加わった上杉景勝である。

上杉景勝は、家康が天下統一に動き出したとみて、家康に反発して、会津に戻った。そして、主従関係にあった直江兼続(なおえかねつぐ)に、新しい城の建築を命じた。

家康は、上杉景勝に対してその後、別件で手紙を送るのだが、直江兼続が返事として出した書状が、家康を激怒させる内容であったという。

直江兼続は、石田三成とも仲が良く、三成も家康の独断行動には反発していた。

こうして、家康は上杉景勝に対して謀反の疑いを抱き、会津に向けて出兵することになる。

そうした中で、石田三成は、家康が留守の間に反家康の勢力と団結して、戦いの準備を始めたのである。

家康と同じ五大老に入っていた毛利輝元も、石田三成に同調することになった。

だが、家康もバカではない。会津に赴く途中で、ある対策を講じていた。

それは何だったのだろうか。

いよいよ天下分け目の戦いである。





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