20世紀の歴史と文学(1914年)

1914年は、日本人のみならず世界中の人々が記憶しなければならない年である。

この年に起こった大きな出来事を、あなたはすぐに答えられるだろうか。

そう、第一次世界大戦の始まりである。

くしくも、明治天皇が亡くなってほぼ2年後に、欧米やロシアの各国が宣戦布告し、戦禍はあっという間に拡大した。

まず、7月28日、オーストリアがセルビアに宣戦布告した。

8月1日、ドイツがロシア帝国に宣戦布告した。8月3日、ドイツがフランスに宣戦布告した。
8月4日、イギリスがドイツに宣戦布告した。
8月23日、日本がドイツに宣戦布告した。
アメリカは、中立的立場を宣言した。

日本が、ヨーロッパの宣戦布告よりだいぶ後になって、ドイツに宣戦布告したのが分かるだろうか。

日本が、日露戦争の前に、イギリスと日英同盟を結んでいたことを思い出してほしい。

日英同盟では、ロシアのアジア進出を牽制する目的で、一方の締結国が2国以上と戦争状態に入ったときには他方の締結国も参戦することを約束していた。

だから、イギリスがドイツに宣戦布告した後に、イギリスに確認を取って調整を進めていき、19日遅れで日本も宣戦布告したのである。

だが、日本は、戦禍が自国に及ぶ心配はなく、遠いヨーロッパまで船で何日もかけて応援に行くことなどメリットはほとんどなかった。

しかし、当時は、中国の領土がドイツに一部占領されており、もしドイツが敗れたら、日本のアジアでの勢力拡大が期待できた。

事実、イギリスは、日英同盟をこの第一次世界大戦に適用すべきかどうか、最初は迷っていたのである。

第一次世界大戦は、もともとセルビア人青年がオーストリア皇太子を暗殺したサラエボ事件(6月28日)がきっかけで、オーストリアとセルビアの二国間の問題だった。

しかし、なぜドイツが、ロシアとフランスに立て続けに宣戦布告をしたのかが分かっていないと、この戦争は正しく理解できないだろう。

実は、明治天皇の崩御で日本中がショックを受けていたとき、1912年10月から1913年5月までの間、第一次バルカン戦争がオスマン帝国とバルカン同盟(セルビア、モンテネグロ、ギリシャ、ブルガリア)との間で行われていた。

「バルカン」というのは、バルカン半島のことであり、バルカン半島に当時あった国々がバルカン同盟を結んでいた。

オスマン帝国というのは、今のトルコである。また、当時のオーストリアは、正式にはオーストリア=ハンガリー帝国であり、ロシア帝国は今のウクライナやモルドバまでが領土だったため、オーストリアやルーマニアにとって、ロシア帝国は陸続きだった。

第一次バルカン戦争では、オスマン帝国をオーストリアが後方支援しており、セルビアを含んでいるバルカン同盟をロシア帝国が後方支援していた。

オーストリアがセルビアに宣戦布告するのは、ロシアの支援国に手を出すわけだから、ロシアはすぐに出軍の準備をした。

そこをドイツが見逃さなかったのである。

ドイツがオーストリアと国境を接しているのは今でもそうだが、当時のドイツはロシア帝国とも隣接していた。

そして、ロシアとフランスは同盟関係にあったからこそ、ドイツは両国に宣戦布告したのである。

明日も、第一次世界大戦について、引き続き解説しよう。



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