【続編】歴史をたどるー小国の宿命(50)

5月の回も、今日で最終日になった。

急きょ後半は、1週間延期しての再開だったが、あっという間に終わった。

当初は、家光までの代を一気に駆け抜けることも考えたが、やはり大坂冬の陣までで中断、続きは6月に持ち越すことになった。

したがって、10回の連載で15年しか進んでいない。

NHKの大河ドラマは、まさに『どうする家康』の真っ最中であるが、昨日の記事の最後に登場した真田幸村も、7年前の大河ドラマ『真田丸』で堺雅人が主演を務めた。

真田幸村は、本当は真田信繁(のぶしげ)と名乗っていた。

大坂冬の陣と夏の陣の両方で大活躍し、家康をあと一歩のところで自害に追い込めたというくらい、その攻撃力は天才であった。

だが、最後は、徳川方に首を討ち取られ、49才で亡くなった。家康は、かろうじて生き延びたものの、豊臣家が滅亡したのを見届けてその翌年に亡くなった。

ところで、「真田丸」は、大坂城の南側の出城のことをいうのだが、大坂城は周囲を淀川や大和川が流れていて、敵に攻め込まれにくい地形上にあった。

ただ、大坂城の南側のほうは、地続きになっており、敵に攻め入られる隙があった。そこをガードする意味で、幸村は出城である「真田丸」を築いたのである。

大坂冬の陣が1614年の11月から12月にかけて勃発したとき、幸村の読みどおりに、徳川方は城の南側に回り込んできた。

また、20万人の徳川軍は、大坂城の四方を包囲し、豊臣軍は、城に籠城する作戦を取った。

幸村は、「真田丸」に攻めてきた徳川軍を、鉄砲のつるべ撃ちで要塞から撃退した。少数の真田隊に降参した徳川軍は、家康の判断で撤退を決め、ひとまず豊臣家と和議を結ぶことにしたのである。

しかし、家康はこの和議で豊臣家を油断させて、講和条件として真田丸の取り壊しも提示していた。

だが、幸村は、最後まで家康を苦しませたほど、勇猛果敢な武将だった。

来月は、6月12日に第51回から再開するが、大坂夏の陣へとつなげていこう。

それまでの間、大阪観光にぶらっと行って、幸村ゆかりの地を訪れるのも良いだろう。

六文銭の家紋が入ったグッズもオススメである。



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