【続編】歴史をたどるー小国の宿命(77)

日本がアメリカと日米和親条約を結んだ2年前の1852年11月3日、ある人物が生まれた。

その人物が誰か、ご存じだろうか。

11月3日は、今で言うならば、文化の日である。

文化の日は、もともと何の祝日だったかを考えれば、ピンときた人はいるだろう。

そう、明治天皇がこの世に生を受けた日である。

ここで、長らく触れていなかった朝廷の話をしておこう。

明治天皇が生まれたとき、その父親は、第121代の孝明(こうめい)天皇だった。

天皇の代が120番台となると、一気に現代に近づいたという実感が湧くだろう。

今の令和の時代が、第126代の徳仁(なるひと)天皇の時代である。

平成の時代が、今の上皇様である第125代の明仁(あきひと)天皇の時代である。

昭和天皇が124代、大正天皇が123代、明治天皇が122代となる。

お分かりだろうか。

つまり、孝明天皇は、幕末最後の天皇だったのである。

明治天皇は、孝明天皇の2番目の皇子で、江戸から明治への過渡期に生きたわけである。

孝明天皇は、第12代将軍の家慶がまだ健在だった1846年に即位した。実は、天皇自身が攘夷派であり、即位当時は15才だった。

坂本龍馬は、孝明天皇より5年遅く生まれたのだが、孝明天皇の時代を生きながら、尊王攘夷思想へと傾いていくのである。

孝明天皇と同じ攘夷の立場だった薩摩藩と長州藩は、幕府が日米和親条約と日米修好通商条約を結んだあとに、それぞれ大事件を起こしてしまう。

これらの大事件に触れる前に、1858年から59年にかけて起きた「安政の大獄」と、その翌年の「桜田門外の変」を知っておく必要があるだろう。

安政の大獄は、なぜ起きたのか。

幕府の大老だった井伊直弼が、尊王攘夷派を弾圧した事件であるが、もとはといえば、日米修好通商条約に、孝明天皇の勅許を待たずに勝手に調印した井伊が悪いのである。

孝明天皇は、当然のことながら、幕府の専断措置に激怒した。

そして、孝明天皇より1つ年上だった吉田松陰も、この頃28才であり、幕府の対応を批判したのである。

吉田松陰は、安政の大獄で刑死した幕末の志士の一人となった。

井伊直弼は、この翌年に、水戸藩の浪士たちに、桜田門外で暗殺された。

水戸藩がなぜ絡んでくるのかというと、実は、第14代将軍を誰にするかという将軍継嗣問題で、派閥争いがあったからである。

この続きは、明日、解説していくことにする。






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