【続編】歴史をたどるー小国の宿命(88)

坂本龍馬もまた、勝海舟と同様に、西郷隆盛とは1864年が初対面だった。

もともと、2年前の1862年に、龍馬自身が勝海舟に弟子入りをして、彼の私塾で学んでいた縁で、西郷隆盛と面会する機会があったわけである。

龍馬は、江戸幕府の軍艦奉行だった海舟とともに神戸海軍操練所を創設し、列強諸国の開国の圧力に対抗すべく大阪湾の防衛にあたっていた。

龍馬の立ち位置がこれで分かるかと思うが、尊王攘夷派である。

勝海舟の私塾では、龍馬自身も門生を集めるのに奔走し、海軍に必要な航海術の知識などを多くの藩士や浪士が学んだ。

だが、幕府が長州を目の敵にしていたときに、海舟の私塾に長州藩士が在籍していたことが知られて、海舟は軍艦奉行を罷免されてしまった。

当然のことながら、神戸海軍操練所も閉所に追い込まれた。行き場を失った龍馬たち門生を、海舟の働きかけで薩摩藩が受け入れてくれたのである。

龍馬が海舟に弟子入りしてから、薩長同盟が結ばれた1866年までの4年間は、目まぐるしく情勢が変化しており、後になって「海援隊」として名を変えた「亀山社中(かめやましゃちゅう)」の設立もこの間に行われた。

亀山社中は、イギリスの貿易商人グラバーが経営するグラバー商会と取引を行い、龍馬は薩摩藩名義で小銃などの武器や蒸気船の購入を行なった。

「亀山」は長崎の地名である。「社中」は会社のことであり、龍馬が設立したこの亀山社中は、日本の歴史上初めての会社となった。

実は、亀山社中を通じて薩摩藩名義で調達された武器が、長州藩へ流れていったのである。

このことは何を意味するかというと、薩長が手を取り合って倒幕へと舵を切ったことになる。

ただ、薩長同盟はすんなりと事が運んだわけではなく、そこは、龍馬が長州藩の桂小五郎と西郷隆盛の間に入って調整を図ったのである。

この間に、幕府もまた、第二次長州征伐のための軍費調達のため、イギリスの銀行から借入れを行なった。

しかし、亀山社中を通じて十分な武器の調達ができた長州藩は、薩摩藩の協力もあって、第二次長州征伐では、見事に幕府軍に勝利した。

1866年8月、第二次長州征伐の出陣中に、大阪城で将軍・家茂が病に倒れた。

家茂はそのまま、わずか20才の若さで亡くなり、幕府はあわてて朝廷に休戦の勅命を求めた。

だが、時すでに遅しであり、もはや幕府は死に体も同然であった。最後の将軍・慶喜の就任までしばらく混乱が続いたのである。







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