【続編】歴史をたどるー小国の宿命(78)

1858年、紀伊国の第13代の和歌山藩主だった徳川家茂が、第14代の江戸幕府の将軍に13才で就任した。

この一文を読んで、はぁ?と思われた方もいるだろう。

家茂は、実は、3才で和歌山藩主に就任し、10年間在職していたのである。ちなみに、この在職期間中は、「慶福」(よしとみ)という名で呼ばれていた。

和歌山藩主は、8代将軍の吉宗も、第5代藩主を務めており、家茂も同様に、その後、江戸幕府の将軍になった。

和歌山藩は、紀州徳川家の領地である。紀州徳川家は、御三家の一つであり、他の二つが、尾張徳川家と水戸徳川家であった。

この御三家であるが、和歌山藩は徳川義直が初代藩主、尾張藩は徳川頼宣が初代藩主、水戸藩は徳川頼房が初代藩主となった。

幕末になぜこんなに歴代藩主をさかのぼるのかというと、実は、この御三家の初代藩主が、家康の九男、十男、末男だからである。

家康は、11男3女に恵まれていた。九男の義直以下3人の子どもは、1600年、1602年、1603年に誕生し、ちょうど関ヶ原の戦いから江戸幕府樹立までの期間に重なる。

このとき、家康は60才手前だったはずだが、孫くらいの年の差の子どもだったのである。

家康の子どもが、関東と中部と関西にそれぞれ藩主として配置されたのは、家康や秀忠による幕藩体制強化の一環であろう。

御三家は、将軍家に次ぐ高い家格であり、歴代将軍の中に、この御三家の藩主出身者がいるのも、不思議ではない。

この御三家に次ぐ家格として、御三卿(ごさんきょう)がいるのだが、御三卿の一つが一橋家であり、慶喜がその一橋家の出身なのである。

だから、慶喜は、一橋慶喜とも呼ばれている。

実は、第11代将軍の家斉も、一橋家出身なのだが、家斉と慶喜の2人が一橋家からの将軍輩出となった。

逆に、尾張徳川家は、家康の地元であるにもかかわらず、一度も将軍輩出の機会に恵まれなかった。

将軍家の跡継ぎ不在に困ることのないように、御三家や御三卿が創設されていたのだが、1858年に近江彦根藩の藩主から幕府の大老に就任した井伊直弼は、第14代将軍に、紀州徳川家の家茂を推したのである。

一橋慶喜の実父は、水戸藩の第9代藩主の徳川斉昭(なりあき)であり、尊王攘夷派だった。

開国派の井伊直弼とは、井伊が彦根藩主のときから対立しており、斉昭は、第14代将軍に、我が子の慶喜を推した。

そして、斉昭もまた、井伊直弼による「安政の大獄」の犠牲者となったのである。井伊が桜田門外の変で暗殺されたあと、慶喜の父・斉昭も、後を追うように61才で亡くなった。

最後に付け加えておくが、今の水戸市にある偕楽園は、斉昭が造園したものである。






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