古典100選(21)十訓抄

鎌倉時代(1252年)に成立したとされている『十訓抄』(じっきんしょう)は、言葉どおり「十の教訓」を挙げて、説話形式でまとめられたものである。

その十の教訓とは、下記のとおりである。

第一    人に恵を施すべき事 
第二    傲慢を離るべき事 
第三    人倫を侮らざる事 
第四    人の上を誡むべき事 
第五    朋友を選ぶべき事 
第六    忠直を存ずべき事 
第七    思慮を専らにすべき事 
第八    諸事を堪忍すべき事
第九    懇望を停むべき事 
第十    才芸を庶幾(しょき)すべき事

では、原文の一部を読んでみよう。第七の教訓である。

①河内の国、金剛寺とかやいふ山寺に侍りける僧の、「松の葉を食ふ人は、五穀を食はねども苦しみなし。よく食ひおほせつれば、仙人ともなりて、飛びありく」と言ふ人ありけるを聞きて、松の葉を好み食ふ。
②まことに食ひやおほせたりけむ、五穀の類食ひ退(の)きて、やうやう両三年になりにけるに、げにも身も軽くなる心地しければ、弟子などにも、「我は仙人になりなむとするなり」と、常は言ひて、「今々」とて、うちうちにて身を飛び習ひけり。 
③「すでに飛びて、登りなむ」と言ひて、坊も何も弟子どもに分け譲りて、「登りなば、仙衣(せんい)を着るべし」とて、形のごとく腰に物を一重(ひとえ)巻きて出で立つに、「わが身にはこれよりほかは要るべきものなし」とて、年ごろ秘蔵して持ちたりける水瓶ばかりを腰に着けて、すでに出でけり。
④弟子、同朋、名残惜しみ悲しぶ。
⑤聞き及ぶ人、遠近(おちこち)、市(いち)のごとくに集まりて、「仙に登る人、見む」とて、集ひたりけるに、この僧、片山の岨(そば)にさし出でたる巌の上に登りぬ。 
⑥「一度に空へ登りなむと思へども、近くまづ遊びて、ことのさま、人々に見せ奉らむ」とて、「かの巌の上より、下に生ひたりける松の枝に居て遊ばむ」とて、谷より生ひ上がりたる松の上、四五丈ばかりありけるを、下げざまに飛ぶ。
⑦人々、目を澄まし、あはれを浮べたるに、いかがしつらむ、心や臆したりけむ、かねて思ひしよりも、身重く、力浮き浮きとして弱りにければ、飛びはづして、谷へ落ち入りぬ。
⑧人々、あさましく見れども、「これほどのことなれば、やうあらむ。さだめて飛び上がらむずらむ」と見るほどに、谷の底の巌に当たりて水瓶も割れ、またわが身も散々打ち損じて、ただ死にしたれば、弟子、眷属(けんぞく)、騒ぎ寄りて、「いかに」と問へど、いらへもせず。
⑨わづかに息のかよふばかりなりけれど、とかうして坊へ舁(か)き入れつ。
⑩ここに集まれる人、笑ひののしりて帰り散りぬ。

以上である。

あえて訳さないが、だいたい分かるだろうか。

「思慮を専らにすべきこと」が教訓とされているように、このお坊さんは、五穀を食べずに松の葉を食べたら仙人になって飛べるという迷信を信じて、3年間松の葉を食べていた。

普通に考えれば、体重が減るわけだから、体が軽く感じるのは当たり前なのに、それをもう空飛ぶ仙人になったのだと思い込んで、周りの人にそれを伝え、みんなが見送りに集まったわけである。

カッコつけて崖から下の松の枝に飛び移ろうとしたものの、体が浮くはずもなく、そのまま谷底へ落ちて体を思い切りぶつけてしまった。

幸いにもまだ息があり、そのまま僧坊へ運ばれたものの、見送りに集まった人からは笑われてしまったのである。

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