【続編】歴史をたどるー小国の宿命(92)

鳥羽・伏見の戦いは、まさに「鳥羽」と「伏見」の地で起こったわけであるが、今で言う三重県の鳥羽市とは違うので、勘違いしないように気をつけよう。

京都市伏見区には、上鳥羽公園と下鳥羽公園があり、2つの公園は鴨川を境に、南北に位置している。北側にある上鳥羽は、現在の京都駅の南側にあり、ちょっと南西に行くと高槻市に入ってしまうくらい、大阪に近いのである。

そんなところで、薩摩藩率いる新政府軍と、慶喜を支持する旧幕府軍とがぶつかり合った。

戦いは、あっけなく4日間で終了した。

旧幕府軍は、新政府軍の3倍の1万5千人の兵力だったのだが、薩摩藩の戦略が上手かったのと、新政府軍が「錦の御旗」を掲げたことにより、一気に戦意喪失したのである。

「錦の御旗」というのは天皇の象徴であり、これを相手に掲げられると、敵は「朝敵」ということになり、事実上、天皇に対して刃向かったことになる。

そのまま旧幕府軍は敗走することになり、新政府軍は江戸を目指して東進していった。

江戸では、まだ幕閣たちが江戸城や城下町にいるわけであり、このままでは多くの血が流れることが懸念されたわけであるが、事前に西郷隆盛と勝海舟が会談したことで、無血開城が実現した。これが、1868年4月のことであり、戊辰戦争開始から3ヶ月が経っていた。

ここで、さらに新政府軍は北へ向かうことになり、5月には江戸のすぐ北の上野で戦い、7月には新潟の長岡城で旧幕府軍と戦いが続いた。

そして、8月から9月にかけては、福島県の会津若松で激戦が繰り広げられた。

なぜ、ここまで戦禍が拡大したのだろうか。

それは、会津藩と庄内藩が、徳川家に忠誠を誓っていた藩であり、その抵抗力も半端なかったからである。

東北諸藩は、この2藩を中心に「奥羽列藩同盟」を結成し、新政府軍を手こずらせた。

以前に触れたとおり、会津藩主だった松平容保は京都市中で新選組を動かしていたし、庄内藩は江戸市中の取り締まりを担うほど、徳川家からの信頼は厚かったのである。

新選組はすでに戊辰戦争の開始直後から解体同然だったが、あの土方歳三が旧幕府軍とともに奮起して、函館の五稜郭まで死力を尽くして戦った。

新選組局長の近藤勇は、副長の土方歳三とともに偽名を使って、新政府軍の追っ手から逃れてはいたが、とうとう捕まってしまった。土方歳三が勝海舟らに助命嘆願をしても聞き入れられず、今の東京都板橋区にあった刑場で斬首刑に処された。34才の若さだった。

さらに悲劇は、会津の地でも起こった。

そう、有名な白虎隊の存在を忘れてはいけない。続きは明日である。






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