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「名付けようのない踊り」生きるということ、存在を認識するということは、踊ることなのかもしれない

田中泯のダンサーとしての日常を追った犬童一心監督のドキュメントである。彼の役者としての姿は、そのデビューであった「たそがれ清兵衛」以外は出てこないし、そこにフォーカスを当てることもない。あくまでもダンサー田中泯の存在を知らしめるべく、この映画は成り立っている。私も、田中さんがそういう人だとは知っていたが、彼のその本業としての姿をじっくりと見るのは初めてであった。

なんなんだろう、田中泯自身を見ていても、なんかよくわからないが凄いという印象なのだが、それに引きずられるように見ている観衆も不思議に見える光景。ここまで含めて踊りなのだろうという印象であったら、田中自身が「自分と見ている間にダンスがある」ということを言っている。そう、人と人とが対峙する中で、その空気の中で、波動の中でダンスが繰り広げられるということなのだろう。「場踊り」と呼ばれるものの本質はそこなのだろうか。その瞬間の刹那を掴むように田中泯は存在する。

若い頃からの踊りの姿も映画の中で紹介される。局部を隠しただけの裸体で舞うという行為をした男だ。この間ラジオに出ていた時に、そんな踊りをやって捕まったことも話していたが、世代的なものもあるだろうが、かなり偏った舞踏家であることは確かであるのだろう。いや、舞踏家という肩書きで済ませられるものでもない気はする。田中泯は田中泯という存在を生きている感じ。

そして、結構、若い時期から、野良仕事で体を鍛えてきたというが、まさに、彼自身が自然と一体になって存在することを選んだのだろう。自分を特別な存在にしないことで田中泯は田中泯でしかないという位置にい続ける。そんな生き方がよくわかる映画だった。

だが、彼の「名付けようのない踊り」に関しては実際に見てみないと、いやみても完全には理解しきれないだろう。自分の内面の濃度を高めて外に発散する感じ?そして、そこで起きた波動が、自分を踊らせ、観客を踊らせる。元来、踊りというものは、自然発生的に生まれたのだろうし、それ自体に意志があり、叫びがあったと言っていいのだろう。

一般のドラマや映画に出ている彼が、他の役者と少し違く見えるところがあると感じるのは、役に対する入り方なのかもしれない。役者としての田中泯は、役に対し真摯に乗り移ろうとしているように私には見える。それは、彼の踊り自体が、日々、違う波動の中で蠢いているようなものだからなのだろう。そして、常に、踊りとは何かという問いと戦っているようにも見える。

ラスト、ひと踊り終えて、「脳みそが海に沈んで行くようだった」という。そして「気持ちよかった」とも。彼には、踊ることが最大の快楽なのだろう。その踊りは、「瞑想」のようなものではなく、あくまでもアクティブに何かに向かっている感じ。蜘蛛を真似て踊るというシーンがあったが、蜘蛛に対抗して、得体の知れない餌を狙っているようにも見える。

そんな彼の日常を彼自身の語りで紹介していくという、一人称で映像を組み立てたのは、第三者が紹介できるような男ではないということなのかも知れない。この映像自身がダンスにならなければいけないという監督の思いを感じたが、それは正解なのか?

この映画はパンデミック前に撮られたものだが、パンデミックになって我々は自然の中の一部なのだという認識をさせられたように思う。でも、田中泯は、踊り出してから、ずーっと自然と一体なのかも知れない。そして、そうあることで、私たちが本当は感じなければならない大事なものの少し近くにいるようにも感じた。とにかく、一度、生で彼の踊りに対峙したくなったのは確かである。そして、私も今日を踊らなくてはと考えさせられるパワーを感じながら映画館のシートを立ち、ステップを踏む私がいた。


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