見出し画像

隣り合わせ

「お前なんか死んじゃえよ」
 彼氏にそう言われたのが最初だった。そういうことを言うやつを、彼氏と呼べるのかわからないが。
 昼間から薄暗い部屋で二人、狂ったように貪り合ったときだった。日頃の互いの憤懣をぶつけるような苛立たしい行為のあと、何もかもめちゃくちゃになった部屋を整える気もないまま——何しろここは“そういう”場所だ——、彼は背中を向けたまま、ぐったりしたあたしに向けて言葉を刺した。
 そのときは、ああそう、という感覚しかなかった。最中に何度も首を絞められて、意識が途切れるのが妙に快感だったのもある。言われてから、もしかしてあたし死にたいのかな、と冷静に考えすらした。
 これからどうしようか、という話もなく、淡々とその場所を離れ、言葉もかけないままそこで別れる。どうせあいつは適当なところでふらふらして一日を終えるに違いない。別な女を抱くかもしれない。それでも一向に構わないというドライな関係だった。
 これから高校に戻るのも今さらだし、どこかの店で時間を潰して帰ろうか、と思う。我ながら全く模範的な学生ではない。お父さん、お母さん、ごめんなさい。あなたたちの娘は本当はこんなふうです。
 やっと胸の辺りまで伸びた髪の毛先を弄びながら、さっきの言葉を反芻していた。死んじゃえ。死んじゃえか。彼のことだから何も考えずに、その場の気分で発射しただけのものに違いない。けれどあたしは味のなくなったガムを噛み続けるように、繰り返しその言葉を味わおうとし続けた。
 ——死ぬってどんななんだろう。

 臨死体験とか何とか言っても胡散臭いし、一度死んだら戻ってこられない。トライアルがないのだ。
 ネットカフェや漫画喫茶、安いものしか頼まないファミレス、などを経て家に帰ると、母が機嫌悪そうに掃除機をかけていた。多分、また父の部屋だけおざなりにするのだろう。そして——ああいやだ、また父との口論が始まるのだ。娘のあたしは何も知らないふりをしなくてはいけない。さっさと離婚しちゃえよ、養育費とか払ってくれるならそれでいいからさ。
 部屋に着いて鞄を乱雑に投げ出すと、流れ作業のようにカッターを取り出す。チキ、チキという音を立てて刃が出てくる。アルミホイルでシュッシュッと研いで、服を捲った。リスカはやばいから腕にしたほうがいいよ、と聞いてから肩の近くを切っている。結構深くやっちゃってるので、ここが露出する服は着れない、絶対に。
 皮膚に当て、食い込ませたらゆっくりと引く。流れる血が綺麗で、毎回見惚れてしまう。いつもならそれだけで済むのに、頭の中で例の言葉を反復したら壊滅的に切ってみたくなった。いや、やめとけ。こんなんで死ねるわけない。
 一応切った部分に不織布のシートを貼ると、窓を開けて身を乗り出してみた。おお、案外怖い。何しろここはマンションの十三階。不吉な数字だからかすんなり借りられた今の住み処。
 眼下に広がる景色は、地上からとは全く違って見える。人なんか豆粒で、本気で落ちてきた重いものなんかにぶつかったら擦り傷じゃ済まないかもしれない。
 ふうん、などと一人声を漏らしながら、ひとまず窓を閉めた。飛び降りはあとが凄惨だっていうし、それで失敗でもしたら生き地獄だ。
 やっぱり首吊りなのかな。
 あたしはそのとき、自分の中に確かに「死にたい自分」を見つけていた。

「自殺未遂? したことあるよ」
 よく行くカフェで、少し年上の友人にふと訊いてみたらあっさりとした返事が返ってきた。
 彼女に尋ねたのは“らしい”香りがしたからで、間違ってもそれのない人々には話さない。死は誰にでも訪れるのに、タブー視されている。処理不可能な爆弾をそっと覆っておくように。
「やったあとって、どんな感じ」
「んー、やる前はほんとに切羽詰まって死にたい、死にたい。が高じて覚悟になって、やらかす。けど生き延びたあと、すごい虚脱感に襲われる。でもう一回やる気力もなくて、むしろやんなきゃよかった、人生の無駄遣いしたとか思うんだけど、一種の癖になるのよね。一回やっちゃうと」
 なぜか少し得意げに、リクエストしていないところまで語ってくれた。
 ピンと来ない。私は、経験していないからだろうか。
「藍香は死にたいの?」
 当たり前のように問う彼女に、うっと喉の下の辺りが詰まる。
「……別に。なんか、死ねって言われたから。男に」
 友人の目がすうっと細くなった。
「ふうん」
 彼女は軽食を食べ終えて、財布の中身を整えている。もちろん割り勘で、彼女はこういうとききっちり特典を目指すカードを活用する。あたしは慌てて飲食物を流し込み、詰め込んだ。
 カウンターで会計をしていたら、カラカラン、と音がして入ってきた客とぶつかりそうになる。ここの欠点は店全体が狭いことだな、と思っていると彼女がそれを避けるためにこちらへ身を寄せて、その瞬間、囁いた。
「覚悟がないなら、やめといたほうがいいよ」
 知ってはいけない秘密のような気がして、あたしは少しだけ身体を強張らせた。

 死。——死。
 死——
 配られた解答用紙の端に、その言葉を刻んでみたりする。やっぱり、何となく消す。その文字がうっすら残る程度に。
 多分あたしが死んでも親はさほど気にしないだろうし、一人っ子だし、大切と言える人もいないし、この机の上に花瓶が飾られるほどの存在感すら放っていない。
 小さい頃、飼っていた文鳥が死んでしまって、大泣きして、そのときは暫くものが喉を通らなかった。小学校の頃には担任だった教師が闘病の末に亡くなって、だけどどうしてか葬儀に足を運べず、風邪を引いたと下手くそな嘘をついた。中学の二年には、父方の祖父が亡くなった。初めていろんなものに参加した。祖父は身体が悪かったから、火葬のあと大きな骨があんまり残っていなくて、原型を止めないそこからひとつ骨を拾う使命に緊張した。
 ——あたしは、覚悟がないかもしれないな。
 そう思って、シャープペンを置いた。

 またあの男に呼び出される。
 すっかりあたしも都合のいい女に成り下がったな、と思う。少しだけ濃い化粧をして、下着と全身を軽く確認してから、指定の場所へ向かう。
 彼の今日の様子は少々ひどく、そこら辺のフェンスにへらへらともたれかかったと思えば、急に掴みかかってガシガシと揺さぶったりする。クスリをやっているのは気づいていたけど、面倒なことになるから特に指摘しないでいた。こっちもそっちも、鬱憤を晴らせる。ただそれだけのウィンウィン。
「何じろじろ見てんだよ」
 僅かにたじろいだ私の肩を抱え込むようにして、中に入る。寂れた建物。お互いの家でなければ、どこだっていい場所。
 部屋に入るなり、奴はあたしをベッドのほうへ突き飛ばした。受け止めた寝具は柔らかかったが、突き飛ばす際の圧が強く、少しくらくらした。
 間髪入れず、のしかかってくる。
 酒臭い匂いがした。
「まだ死んでなかったのかよ」
 嗤っている。
 服が乱暴に引きちぎられる。さすがにそこまではしない男だったのに、ああこの服それなりにしたのに、どうやって帰ろう? あたしの脳内が錯綜する。
 その日は、ずいぶんと好き勝手された。
 あたしは、何か違和感を覚えていた。
 ——違う。
 ——何が?
 ぜえぜえと荒く肩で息をしていると、彼は鞄から何かを取り出した。
 ナイフ。それも、殺傷能力の高い。
 そういうことに疎いあたしでも、見た瞬間にわかった。
「殺してやろうか」
 やはり、嗤っている。ザク、と鈍い音がしてナイフがあたしの左耳のすぐそばに突き立った。
 ——本気だ。
 咄嗟に身体が動く。のしかかった男の腕からすり抜けるようにしてシーツの上を転がる。非常ボタン。そんなものあるのか? 床に降り立つと、バスルームのほうへ逃げる。少なくともこの部屋にカメラはついているはずだ。逐一観ているわけはないか?
 男が追いかけてくる。敵うわけがない、腕力も脚力も。こんなときに悔しがってる場合じゃ——ない。
 バスルームの行き止まりで、彼は憤怒の表情であたしを壁に打ちつけ、喉首を締め上げた。そしてまた、ナイフを当てがおうとする。
 いやだ。
 股間を蹴り上げる。
 我ながらかなりいいところに当てられたようだ。悶絶している。
 その隙に破れた服を何とか着て、部屋から全速力で逃げ出した。
 涙がこぼれていた。
 さっき、自分が思ったことがようやく言葉になったからだ。
『死にたくない』
 そう。あたしの命は、生きたいと言っている。乱暴に扱われたときの違和感は、きっと自分を大切にしたい気持ちの欠片だ。
「止まってください!」
 どこかへ向かおうとしていたかもしれないタクシーを、身体を張って止める。運転手はあたしの格好を見て察したようで、無事収容された。

 自殺者は、死ぬ間際まで迷うという。
 苦しみに、最後まで抵抗した命の悲鳴が、もがいた形として残っていたりする。
 もしかしたら誰もが、止めて欲しいのかもしれない。
 もしかしたら誰もが、生きられるなら生きていたいのかもしれない。
 車の揺動に安堵して目を閉じながら、そんなことを思った。
 家に着いて、どう言い訳しよう……と思っていたが、母は私の姿を見るなり駆け寄ってきて抱きしめた。
 案外、うちの親は薄情でもなかった。

 あたしは、退廃的な関係とか、生きるに当たっては害になりそうな奴らの断捨離をすることにした。
 この家は、幸い知られてない。
 変わることは怖いと思ったが、ナイフを突きつけられたあの怖さに較べたら何でもないわけで、あたしは“やばい奴リスト”を抹消した。着信も全部、拒否設定にしておく。彼らとのある種の想い出の品々も、ことごとく明日ゴミとして出してもらうことにした。
 ゴミだ。
 あたしの生き方は、ゴミだった。
 いや、そうでもないかな。
 ちゃんと“生きたい”と思えたのだから。
 ゴミの中に光る原石。
 変な喩えを思いついて、一人で笑った。
 殺されるかもしれなかった日のことを、あたしは一生忘れないだろう。むしろ一生忘れて欲しくない、自分に。
 ——死の香りのする彼女は、どうしようか?
 一瞬迷って、消した。
 これで“友達”は殆どいなくなったわけだけど、リスタートに相応しい気がした。
 これからどうするかなんて、あたしの自由だ。
 窓を開けたら、大きく息を吸い込んだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?