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西行と反魂の絵師② [連載時代小説]

 厚い雲に覆われた暗い夜空に、立て続けに稲妻が光った。恐ろし気な雷鳴が間近で轟き、雨が鬱蒼と茂った木々の葉を叩く音が周囲にあふれている。真人は怯える小さな獣のように、大木の幹に穿たれた洞の中で夜明けを待っていた。
 瞼を固く閉じると頭の中に雷神の絵が浮かぶ。自分が何者であるかも判然としないのになぜ雷神の絵を知っているのか。真人には理由がわからない。
 雷神ばかりではなかった。記憶が無数の絵として残っている。絵を生業にしていたからかもしれぬと西行法師は言っていた。
 自分が反魂の術によって再びの生を受けたことは、その時に教えられた。
野に散らばっていた素性の分からぬ死人の骨を集め、繋ぎ合わせて作られた身体。呼び戻された魂は、その死人の骨の誰かのものなのだろう。
 再びの生を受けて半年が経っていた。身体を自由に動かせるようになるまで三ヶ月。声を発するようになったのはつい最近のことだ。本当は、もっと早くから話せたと思う。だが、胸の奥に引っかかっている何かが、それを押しとどめていた。そのせいで西行法師に見捨てられたのだと今ならわかる。

 気がつけば、ただ一人きりで山中を歩いていた。今から十日ほど前のことだ。ずっと傍にいた西行法師の姿がいつの間にか消えた。その時は、何が起きたのか分からなかった。
 樹木のために方角も分からず彷徨った末、やっとこの洞を見つけたのだ。巨大な樫の樹ゆえに、人ひとりが寝起きするには十分な広さがあった。洞の底には枯草や枯れ葉、腐った木屑が積もっており、思っていたより寝心地は良い。近くの湧き水で渇きを逃れながら、ここ数日をやり過ごしてきた。
 理由はわからないが空腹は全く感じない。不思議なことに、水さえ飲んでいれば身体が衰えることもなかった。おそらく西行法師がかけた反魂の術のためなのだろう。だが、真人にはそれを知る術もなかった。

 押し潰されるような不安に苛まれながらも、孤独の中で得られたものもあった。思考する時間である。いつの間にか懐に入っていた『古今和歌集』の写本が、それを助けてくれた。
 ごく短い期間ではあったが、在原業平をはじめ六歌仙に代表される和歌の知識を、西行法師は真人に対して存分に注いでくれていたのである。ただ、反魂の術で生を受けたばかりの真人は、その知識を吸収しながらも、西行法師の前では上手く使えなかったのだ。
 日が昇り、日が沈む。その間、真人は『古今和歌集』を何度も読み返しながら、自らの胸にこみあげてくる思いを声に出してみた。言葉として正しいのかどうかはわからない。だが、声にしてみると、心の奥にたちこめている濃い霧の向こうから返事が返ってきた。その返事の主こそが自分自身の過去なのだろうと、真人はなんとなく感じ取っていたのである。

 そんな夜を幾つか過ごしたうえでの今宵であった。激しく吹き荒れる嵐は心の中をもかき乱す。何とか浅い眠りにはついたものの、いつしか夢の中で雨音は追ってくる武者たちの足音になった。
「常則さま、私はもう走れません。どうか逃げてください」
 若い女人の声がした。
「あなたを置いてなどいけない」
 真人自身の声がこたえる。どうやら常則と呼ばれている男が、真人であるらしい。二人は追われているようだ。それも少人数ではない。なぜ追われているのだろうと考えている別の自分がいるのは、夢だからこその事だろう。
 やがて追手を気にする真人の視界に美しい横顔が飛び込んできた。黒い髪が頬を撫でる。つぶらな瞳がじっと真人を見据えた。
 心が揺らぐ。しっかりと抱きしめた身体の温もりが夢の中でもはっきりと感じられた。
「咲耶…」
 思わず女人の名が口からこぼれる。愛おしさとともに、一気に記憶がよみがえった。この女神の名にも負けない美しき姫を、自分は愛している。
「このままでは常則さまが殺されてしまいます。きっと兄たちはあなたを許しません。追手もそう命じられているはずです」
 ただの絵師でありながら、身分違いの貴族の姫を愛してしまった。姫には遠い東の地の豪族との縁談話が持ち上がっている。その前に駆け落ちしようと企てたが、すぐに露見してしまった。無謀であった。慌てて準備もないままに旅立とうとしたのだから、逃れきれるわけがない。
「常則さまの描く絵が好きでした。どうかこの窮地を逃れ、ご自分のために絵を描き続けてください。私は大丈夫ですから」
 次の瞬間、遠くの林に追手の姿が見えた。いつの間にか身を隠していた炭焼き小屋の周囲は手勢に囲まれている。時間が飛び飛びに感じるのは、夢の中で再現された記憶だからだと理解している自分がいた。それでも呼吸が乱れる。濡れているのは、洞に吹き込む雨のしぶきではなく汗だろう。

 いよいよ追手が小屋に踏み込もうという寸前、真人はわずかばかりの荷物の中にしまっていた桜のひと枝を取り出し、姫に手渡した。二人を結びつけるきっかけとなった桜から手折ってきた枝だった。
「たとえ今は離れ離れになろうとも、この枝が根づき、花を咲かせた樹の下で再び会いましょう」
「きっと…必ずこの枝を根づかせてみせます」
 最後の約束をした。小屋の戸が蹴破られる。荒々しく踏み込んできた武者の手が真人の襟首をつかんだ。抱きしめていた腕をねじられ、姫から引きはがされる。背中に刃の斬撃を感じ、顔から地面に突っ伏した。
「常則さま」
 姫の悲痛な叫びを最後に夢は忽然と消えた。夢は幾重もの層になっていて、より深い眠りの底に沈んでしまったようだ。全てが暗闇になった。

◇ ◇

 翌朝、目覚めた時には、荒れ狂っていた嵐もすっかり去っていた。至る所から鳥の鳴き声が響く。湧き水の流れる音がいつも以上によく聞こえた。
 目覚めてしばらくは四肢に力が入らない。それが反魂によって生を得た者の特徴なのかは分からないが、この時間だけは真人にもどうすることも出来なかった。夢の中で若い女人が呼んでいた常則という名を、心の中で何度も反芻してみる。自分の名だという実感は全く涌かない。
 「咲耶…」と夢の中に現れた女人の名を声にしてみた。動悸が早くなる。やはり愛しい人だったに違いないと思った。その時だった。

「ほう…これはまた面妖な」
 洞の外から押しつぶしたようなしわがれ声が聞こえた。中を覗き込む小柄な老爺の姿が逆光の中に浮かび上がる。
「おぬしは人か? それとも物の怪のたぐいか?」
 真人からすれば、老爺の方がよほど面妖に見えるのだが、身体は相変わらず動かない。なんとか顔だけを老爺に向けた状態で押し黙ったまま時が過ぎる。老爺も黙ったまま、真人の様子を伺っていた。
「目は口ほどにものを言う。おぬしはどうやら人のようだ」
 老爺は洞の入り口にどかりと腰をおろし、おもむろに懐から何かを取り出した。筍の皮で包んである。中身は雑穀で作った饅頭かなにかのようだった。それを食いながら、老爺が続ける。
「わしの名は久米という。世を捨てて、ずっとこの山に住んでおるんじゃ」
 勝手に話し出した老爺に少し呆れながらも、西行法師以外の人を知らなかった真人は新鮮な気持ちで聞いていた。
「言葉が話せぬわけではなかろう。声を出してみよ」
 老爺は饅頭を食いながら、真人に水を向ける。口の中でくちゃくちゃと咀嚼する音がした。ぼろぼろと食いこぼしが足元に落ちる。その食い方の汚さが気になって仕方がない。そのうち、西行法師には感じなかった感情が胸の奥から湧き上がってきた。
「久米などと名乗っているが、そなたは天平の時代に仙人となったその人か? それとも古き言い伝えの人の名を騙っている痴れ者か?」
 真人の言葉に一瞬呆気にとられた老爺の顔が、ぱっと破顔した。
「おぬし、そんな見かけによらず、なかなかの博識とみえるのぉ」
 続けて、さも愉快だとでもいうように、老爺の笑い声が周囲に響き渡った。世捨て人と名乗りながらも、実は孤独な毎日に退屈していたのかもしれないと真人は思う。だがそれ以上に、自分が発した言葉には真人自身が一番驚いていた。

③に続く


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