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運命に愛された女院【建春門院の話・3】

鎌倉時代初期に健御前が記した古典作品『たまきはる』の一部を漫画化してご紹介します。
今回は作者が過ごした建春門院御所での日々のお話です。

*原作『たまきはる』(健御前 著/使用テキスト:岩波書店 刊 新日本古典文学大系 50『とはずがたり・たまきはる』 )
*同じ『たまきはる』から、鳥羽天皇皇女・八条院の登場部分を漫画化した記事はこちら↓

『たまきはる』建春門院篇、最初のお話はこちら↓

御所にどんな女房がいたか、なにを着用していたかが、『たまきはる』には詳細に書かれています。
季節や折に合わせて着るものの組み合わせ、色、持つ扇の種類なども細かに決まっていて、よくぞここまでと感心します。
フルカラーで再現すればさぞかし見映えのする画面になるでしょうが、気力と知識の不足から、今回は一色に留めました。

なお、冒頭に描いた「ひねり襲(かさね)」については詳細がわからないため、100%私の想像です。
ふつうこの時代(院政期)の女性の着物は、「小袖→単衣(ひとえ)→襲袿(かさねうちき)」の順に着るとされていますが、『たまきはる』を読むと、特に夏の間中は、襲袿の上に単衣を着ると解釈しないと理解しづらい箇所があり、いろいろ悩んだ末に冒頭1コマ目の「ひねり襲」の絵になりました。
単衣は袿よりも大きくて薄いつくりなので、下の着物をうっすら透けさせています。

具体的には、『たまきはる』本文には、「(袿を)五重ひねり重ねて、雲付けたる単衣など重ねて着たりき」などと書かれています。
『たまきはる』を研究した『健寿御前日記撰釈』(和泉選書/1986年/本位田重美 著)では、
「単衣を五衣(襲袿)の下に着るものと決めてかかるわけにはゆかない」
「襲袿と単衣との着用個所が、鎌倉期を境として逆になっていると考えられるのである」とあり、『たまきはる』の実際の着用例を列挙して、
「当時の「単衣」は襲袿の上に着るものと断じてよいものであろう」としています。
また、岩波書店の古典文学大系の服飾用語解説でも、ひねり襲は一番上に単衣を着るものではないかと推測しています。

ただ、院政期ごろに描かれた絵巻物が「源氏物語絵巻」をはじめいくつか残っていますが、女性がそのような着方をしているものが、私の知る限りなく。
肌の上に直接、または小袖の上に単衣を着ているものを見ることはあるのですが(「夕霧」巻で、手紙を読む夕霧の背後に迫る雲居雁の姿が有名です)。
本位田氏の仰るように、袿と単衣の着用順が完全に逆転していたのなら、同時代の絵画資料にその形跡が残っていてもいい気がするのですが…。

などとゴチャゴチャ考えれば考えるほどわからなくなってしまうので、今回アップした以外の部分では、単衣は通常考えられている通り、襲袿の下に着せています。
「ひねり重ねる」についても、具体的にどうなるのかわからず、だいぶ適当に描いてしまいました。
デジタル大辞泉の「捻り重ね」の項には、「生絹(すずし)の単(ひとえ)を何枚も重ね、袖口の少し奥でとじ重ねて着ること。また、その着物」と出ていますが、絵にするときに違いを出すのが難しい…。

話を戻しまして、建春門院御所ではこのように、女房たちが身に着けるものが非常に細かく規定されていました。
一方で、何度か書きましたが、健御前がその後に仕えた八条院御所では、この点はほぼフリーだったようです。
八条院に仕え始めた当初、健御前が大いに戸惑ったのも納得です。
個人的にはお仕えするなら絶対に八条院。
しかし眺める分には、建春門院御所の華やかさは素晴らしかったことでしょう。健御前も誇りをもって、建春門院にお仕えしていたと思います。

上皇の寵愛を受けて最高の地位まで上り詰めた建春門院と、生まれついての貴種で、生涯独身だった八条院。
同じように女院と称される身であっても、立場の違いによって普段のライフスタイルがまったく異なるのも面白いところです。

次回は建春門院のお話のつづきで、「帝の行幸」についての部分をアップします。

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