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掌編小説【薔薇喪失】33.辺境に流れて

 薄墨色の湖を、音のない漣を描きながら進んでいた黒くて細い舟は、見知らぬ土地の海岸に上陸していた。柩舟は、流木のように打ち上げられている。波と砂浜の境界で、水に沈んでいる薔薇の根に引っかかると、柩舟は大きく傾いた。岸辺に佇む薔薇の樹木、薄墨色の水に根ざしていた薔薇に座礁して、麗人は舟からまろび出る。葬られた死者が、蘇って柩から這い出るような重々しさと厳かさがあった。薔薇の樹木が根ざす水際は、湿原のようだった。だが浜辺の砂は砂鉄のように黒い。麗人は流木のような気分になりながら、遠くに見える人影をぼんやり眺めていた。やっと地面に触れた足は、まだ感覚を取り戻せてはいなかった。長い睫毛は、まだ眠りの只中にある者のように、薄い瞼の縁は親しくしている。
 気分はまだ、水を漂う時のままだった。麗人は黒い砂の上を歩いた。酷く遠い場所に、要塞のように映る場所が見渡せた。この辺り、薄墨色の湖の麓には、背の高い建物はない。遠目に見えた人影に近づきながら、麗人は毒のような色をした土の上を漂っていた。塩気のない水が、薄墨色の風になって、麗人の長い髪を弄んでいる。麗人は目にかかる横分けの長い前髪を、指先で払った。黒緑色の緩やかに癖のある髪は、長く眠っていたみたいに、整ってはいなかった。麗人は歩きながら髪を手櫛で梳いた。
 人影が見えた場所が集落なのかは分からなかった。麗人はそこへ近づくにつれて足元の土が黒みを増していることに気がついた。薄墨色の湖の近くには、水に根を張る薔薇が咲いていたが、土の色が黒くなるにつれて、大きな薔薇の木が増えている。手入れをされた薔薇の木なのは、麗人にはすぐに見て取れた。自生している薔薇とは違う雰囲気を感じながら、麗人はようやく流木みたいな気分から抜け出すことができた。麗人は集落を、薔薇の影からこそりと覗いた。
 そこにいる人々は、薔薇の栽培をしていた。だがその薔薇を育てる人間を使っているのは、蝋人形だった。麗人は奇妙に思ったが、蝋人形の民が、人間を使役して薔薇を育てさせていた。人々は薔薇を育てて、収穫をしていた。大量の薔薇を籠に積んで、何処かへ運んでいる。薔薇の花一つは軽いものであろうが、大量の薔薇を詰め込まれた籠は、見るからにずっしりと重そうだった。人間たちは蝋人形に鞭打たれながら働いていた。誰一人として苦しいとこぼす者はなかった。麗人は奇妙が過ぎて、柳眉を寄せていた。誰一人として苦しい表情さえしていないことが、現実に成されている鞭打ちと重労働とに整合性が取れなかったからだ。麗人は、自分が頭の中に持っている「応対手引書」の索引を調べていた。使役されている人間たちが、微塵も苦しげにしていないことが不思議で、理由を探していた。その思考のうちにしていた動作といえば、瞬きくらいだったが、麗人はこの水に近い集落で起きている現象に仮説を立てていた。
(彼らには、きっと希望がないんだ)
 絶望しているわけではないのだ。麗人は思った。使役されている人々には、希望という情報が最初から存在していない。希望が何たるかの意味づけができないために、希望を知らない。希望を知らないから、本質が同じである絶望に浸ることもできないのだと、麗人は考えていた。この辺境では、錯誤が起きている。絶望的に終わりない労働を、不幸であると彼らは知らないのだろう。
 薔薇を積んだ籠を背負った人々は、重々しく歩いていた。死者の行列にも見えた。奴隷の行進は、自分が奴隷であることを知りもしない。幸福に関して指針がないために絶望を自然なことであると思い込む姿に、麗人の内側で冷え切った何かが脈動した。未だ彷徨うことをしていた心が、感覚を取り戻していく。同時に麗人を襲ったのは激しい渇きだった。耐えがたい脈動が大きくなるほどに、心の芯が渇きを訴える。悲しいと、彼らを哀れに思ったのだ。使役されていた人々を幻惑していた、絶望を悲しみと識別させない見えない壁が、麗人の抱いた悲しみにひびを入れられていたのだった。
 生きたまま焼かれているような渇きに、麗人は彷徨わざるを得なくなった。蹌踉とした足取りで、薔薇のプランテーションに入っていく。毒の土から、煙が出ていた。麗人が踏んでいた場所から、毒の煙が上っている。土が焼けていたのだ。麗人の足元から焼けた土が、砂漠の砂のような黒砂に変わっていった。空気がぱさついて、乾いた目は瞬かない。長い睫毛が、殺伐として鋭い気迫を放ちながら、麗人は水が焼ける熱さに目眩を覚えていた。
 麗人の髪の端が、ほろほろと燃えていた。渇きの炎は渇きを呼んでいた。麗人は集落の中心に進みながら、整然と並ぶ薔薇の木々を通り過ぎる。薔薇の樹木は麗人の瘴気に触れて自然発火していった。順番に炎を灯していく街灯のように、薔薇は燃えていった。樹木が燃え上がっていることに気づいた人々が足を止めるが、人間を使っている蝋人形の民は人々を鞭打とうとしていた。だがそれも一瞬のことで、麗人が踏み込んだために炎を連れ込まれたプランテーションは温度が砂漠そのものに変わっていた。蝋人形の民は、麗人が虚な目線を投げただけで焼けてしまった。
 残された奴隷たちは呆然としていた。立ち尽くすしかなかったのだった。麗人を見つめて、自分たちの支配者を溶かした麗人を、恐々と見つめていた。
 麗人の美貌は苦痛に歪んでいる。麗人の中で、死が猛威をふるっていた。苦しくても美しくならざるを得ない姿は、眠りを許されない極刑のようであった。麗人が立っている場所から黒い土の砂漠化は進み、燃えていた薔薇の樹木は焼け落ちて崩れていった。すると黒砂の中から骸骨蛾の群れが舞い上がって、麗人に襲い掛かった。しかし麗人が物憂げについた溜息一つで、蛾の群れは鱗粉よりも細かく散ってしまう。
 いつしか炎は消えていた。麗人は倒れていた。薔薇を運ぶ重労働をしていた人々は、何かが落ちたように荷物を捨てて、麗人に駆け寄っていた。

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