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掌編小説【薔薇喪失】35.何処にもない薔薇

 赤い薔薇の花束一つ、それだけが道連れだった。麗人は、薄墨色の湖を渡っていた。柩のような、細い黒塗りの舟に乗っていた。大切に花束だけを積んだ舟を、心許ない櫂で水を切りながら、漣を立てていた。透き通った水の匂いを胸に含ませて、麗人は水に根を張る薔薇が咲く湖を進んでいた。自分の葬送を、自分一人で執り行っている気分だった。誰もいない岸が見えていて、そこが何処なのかは分からなかった。それでも麗人は、折れそうな櫂で漣を編んでいた。冷たい風は麗人に笑いかけていた。黒緑色の長い髪を悪戯に弄んで過ぎ去っていく。悲しいピアノのメロディーを、幻聴していた。心は寂しい歌を求めていたのだった。此処にピアノはなくて、仕方がないから麗人は歌を歌った。聞こえてくる幻に節をつけて、歌詞のないメロディーを低く歌った。頭の中を巡っている歌が終わりに近づく頃、黒舟は岸に乗り上げていた。辿り着くその時を待っていたかのように、櫂は水を掻く部分が壊れて、ただの棒になった。
 麗人は船を岸辺に乗り捨てた。花束だけを大事に抱えて、今度は歩いた。道はあったが、麗人は自分が知らない道を歩いていた。行きたい場所だけは、分かっていた。知らない道を歩きながら、行きたい場所に向かっていた。果てしない夜々を歩き通した。薄墨色の水を渡っていたことを忘れながら、麗人はいつしか庭園の前に立ち止まっていた。
 小さな集落のように、庭園は囲われていた。麗人は蔓薔薇が絡みつきながら咲いているアーチを潜った。そこに足を踏み入れると、麗人はその場所の名前を思い出した。場所の名前のことは、忘れていたわけではなかった。此処に来ないと、手に入らない名前だった。その庭園は『何処にもない薔薇』──そんな名をしていた。
 『何処にもない薔薇』には、昼も夜も存在しなかった。かと言って朝があるわけでもない。此処には、広義でいうところの時間が存在していなかった。同じ状態が、ただ横たわっていて、薔薇が咲いている。麗人は厳かな気分になりながら、薔薇のアーチを進んでいった。愛しているものを、迎えに行く心地がしていた。落ち着いた風情を装いながら、そわそわとしていた。微笑む準備ができていた。腕の中で、薔薇の花束はそんな麗人に微笑んでいる。
 薔薇の通路を抜けた先には、大きな薔薇の樹の下に、二つの墓が並ぶ場所だった。一つには、墓碑に名前が刻まれていたが、もう一つには、まだ何も記されていなかった。麗人の微笑みは、砂を噛むような苦味と、寂しさにほろほろと崩れていた。限りなく泣き笑いみたいな目をしていても、麗人は美しくならざるを得なかった。麗人は墓碑に文字が刻まれている方の墓に、ひと抱えほどもある薔薇の花束を渡した。そして墓の前に膝をつくと、穿たれている名前をなぞった。節と節の間隔が等しく長い指先が、慈しむように、葬られた名前を愛していたのだった。

「マリー・ジャンヌ・ミシュリーヌ……」

 葬られた名前をなぞり、囁く指先が離れた時。その呟きの瞬間は、交わした唇が名残惜しげに離れるような声が、静寂に落ちている。麗人は妻の墓から離れると、隣にある墓碑の前に置かれている柩を、椅子の代わりにして腰掛けた。長い脚を組み、薔薇をそよがせる風の赴きに従うことも逆らうこともせず、ただ風を風のままにして揺られていた。

「薔薇、美しいだろう? 君が気に入ってくれると思って、持ってきたんだ」

 麗人はまるでそこに誰かがいるかのように話した。緩く波打つ長い髪を一房、耳に掛ける左手には、薬指に悲しみよりも青い輝きが、指輪となって昏く光っている。返事などないことは分かっている麗人であったが、その沈黙、静けささえ返ってくることのない死した薔薇の香りに包まれた庭園で、苦味の混ざった笑みを浮かべていた。

「こんな薔薇くらいで……君に会いに来ない僕が埋め合わせなんてできないか……」

 麗人は長い睫毛を伏せて、風の音を聞いていた。咲いている薔薇は香りがしないのに『何処にもない薔薇』に咲く薔薇の香りはいつだって死に花の香りだった。瑞々しい時に、薔薇は香らない。朽ちる時に、薔薇は甘い。薔薇の死を閉じ込めたかのような庭園で、麗人は空しさに噛まれていた。憂う美貌が、悲しみに研かれている鋭い影が躍るばかりだった。
 妻の隣に座っているような気分だけに浸りながら、麗人は呟いた。

「僕のことを怒っている?」

 麗人は、妻の墓参りに、あまり行くことがなかった。命日と、月の命日。それから妻の誕生日、結婚した日。麗人が妻に会いに行くのはそのくらいの日だった。この逢瀬が多いのか少ないのか、麗人には分からなかった。分からなかったが、麗人は本当は何もかも全て義務も趣味も捨てて、妻の隣でぼんやりしていたかった。妻が仮に生きていたら、窘められるだけなのだろうが、今の麗人の望むことはそのくらいだった。怒った顔も、妻は可愛かった。
 妻の墓に来られないときは、つらくなってしまいそうな予感がする時だった。此処に咲く薔薇は、麗人が嘆いた過去と、悲しみの夜々の数だけ生きていた。麗人は薔薇に包まれた妻の名を見つめていた。同じ姓になった、一人の女性を。

「…………」

 独り言をいうのに飽きてくると、麗人は悲しくなろうとした。惨めになりたかったのだ。妻に何か言ってみたところで、妻はもう、微笑んではくれない。

(僕は、奪ってしまったのかな)
(彼女の、命さえ)

 耐えられない独り言は、心の内側から棘で貫くのだった。心の冷え切った部分、努めて触れないようにしている場所を。裁かれたいと思いながら、返事どころか微笑みどころか、可愛い顔で怒る姿にさえ出会えない。麗人は導かれるようにして、頬に指先を置いていた。

(僕は、いつだって)
(奪って、ばかり)

 『何処にもない薔薇』に来ているときは、嘆いている自分に気づくことができるのだった。糾弾と裁判は愛を捧げたただ一人からしか受け付けていなかったが、罪悪に堕ちてしまいたくて訪れる妻の傍は、麗人にとっては残酷なくらい優しいだけだった。
 麗人はただ嘆いていた。涙はどうしても、泥臭くなど流れていかない。純度の高いアルコールのように、澄んで滴り心に落ちて燃え上がる。泣いたところで美貌は毫も変わらない。微塵も哀れを、誘わない。悲しくなれない苦悩が、燃えているだけだった。柩に座って、項垂れたままで。自分が隣に眠るための冷たい褥は、麗人の名を忘れて、薔薇に包まれている……
 雨が降ってきたのは、その時だった。雲が出て空が陰るという前触れもなく、驟雨が辺りを真っ白にしていた。麗人は冷たい雨に打たれても、そこを動かなかった。雨に降られても、俯いた美貌は傲慢な影を刷いていた。美を塗り落とし、悲しみの住う場所はなかった。麗人は声を立てずに泣いていた。俯いた美貌を大きな手で覆った。涙は怒りの震えに似ていた。何に嘆いていたのかが、その境界を曖昧にしていくのだった。悲しいのは妻が死んでしまったことか、泣いてみても悲しそうに見えない自分のことか──
 麗人は雨に打たれる薔薇の花々を振り仰ぐように、死に満ちた庭園を彷徨う甘い香りを見上げて顔をあげた。雨に降られた美貌に、激情だけが妖気冴えていた。瞬くことをしない青い目を、こぼれていく涙を上塗りするように雨が流れ落ちていった。目の前が、解けて滲んで、淡くなっていく。麗人の内で猛威を振るう死は、そこにある獰猛な美の気迫によって、悲しみは麗人を青く彩る輝石に変える魔術だけを、悪魔のように成していた。呪いのような気高さは、細められた麗人の眦を凄絶に鋭くしていた。
 涙の紗幕の向こうで、誰かが微笑んでいた。眼球の表面で涙が、雨が、どちらの悪意か分からない悪戯をしていた。白っぽくなった庭園で、自分の側にいる誰かの存在を、麗人の目に映らないようにしていた。愛していた誰かの後ろに、夥しい呻きがこだましているが、優しい気配だけで麗人の目に映ることない温もりは柩に腰掛けている。
 麗人が生きているだけで、美しくあるだけで、死を強いられてきた者たちの声がする。熱帯に降る雨のように辺りを白く弾けさせた視界の先に、亡霊の呻きが聞こえていた。寂しい歌のように、幻聴ではなかった。涙とも雨ともつかない落莫に、力ない口元が薄笑いを添えていた。
 もうずっと、このまま雨が止むまで嘆いて過ごしていようか──麗人がそう思った時、雨の中で薔薇が次々と咲き出した。この庭園の薔薇は、麗人が嘆いてきた過去の連なり、流してきた喪失の悲しの数だけ、咲くことをするのだった。滅ばないといけないはずの薔薇庭園は、今日もまた新しい花をつけている。萎れていた薔薇も、雨を啜って瑞々しさを取り戻していた。朽ちねばならぬ土地の薔薇は、増えるばかりだった。
 麗人は雨に打たれながら、凝然と、長い睫毛の傲慢に疲弊を塗り落として動けずにいた。睫毛に塗られた崇高な疲れは、下瞼に悽愴な業念を、影よりも深く刻んでいた。いつか自分が眠るために置いてある柩に、座ったままで。嘆きの数だけ薔薇が咲く庭は、この雨が止む時に麗人が去らねばならない刻限を告げる。ずっと此処にいて、何もしないで過ごしていたかった。新しく何かを愛する気力はなかった。恋と愛を教えてくれたひとに、無力にも愛を捧げることをするしかなかった自分より、煌めくものに出会えるとは思わなかった。

「愛してる……ずっと、僕は君を……愛している……」

 身体は冷え切っていた。雨に打たれる長い時間のうちに、温かい場所は内臓の細い芯だけになっていた。声は掠れて、低かった。
 自分と妻を永遠にしたのは、愛ではなくて、死であった。永遠よりも早くに息絶えた妻は、麗人の心に鍵をかけて、その鍵を持ち去っていった。

「愛している……」

 言葉がない者のようにならざるを得ない虚無に惑わされながら、麗人は呟いていた。この永遠に捧げる純心が、他に何一つとしてないと言わんばかりに。麗人の明眸は、悲しみよりも青い色をしながら、瞳孔の奥は深淵の闇となっていた。奪う者の瞳だった。美しい薔薇に彩られた青き宿命の為にあらゆるものを奪って、激しく薔薇燃ゆ生涯を全うする為に、運命に選ばれなかった者からなんでも奪うことが許される魔力がある美しさだった。
 その美しい青の宿命は、自分が愛したひとさえ自ら奪ってしまったのかと、懊悩に目眩がした。それでもただ一つ、自分が奪ったものに誇れるものがあると、麗人はそれだけに縋って、鍵をかけられた心を抱きしめるのだった。
 ただ一つ──妻の心を奪ったことだけを、麗人はいつまでも自らの心に咲く薔薇として、大切にしていた。弱くなり始めた雨に、此処に留まる刻限が、残酷に告げられていても─。
 麗人は増え続ける薔薇を見つめていた。捧げたはずの花束が、姿を消していたことに気がつくこともないままで……

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