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掌編小説【薔薇喪失】41.水に委ねた悲劇と英雄

 水に揺られて咲く薔薇は、どれも暗い赤の花びらをしていた。巻かれた柔い花弁に雪をのせて、漣に咲いている。神聖な水の下でしか生きられない薔薇が、暮らしから隔絶されたその湖が特別であることを語っている。山の上にある湖は拒むのである。その場所に、立ち入ることが相応しくないものを。静謐は漣の無音。水は何処かへ打ち寄せる時だって、何かを言うことはなかった。
 空気の彩度は限りなく落ち込んでいる。澄んだ水面は透き通った薄墨色をしている。水は、水底に根を張る薔薇の血管が透けて見えるほど清浄なものであったが、不思議と暗い色をしていた。綿のように舞う雪の白さが、彩度の落ちた世界の中で、目を焼くような眩しさを含んで水面に吸い込まれている。積もらない雪は、薄墨色の漣に触れて、湖に消えていく。
 向こう岸も見えない澄んだ漣に、細い船が一つ、浮いていた。黒く塗られた、柩のような細い船であった。山のように薔薇が積まれていた。そして、積荷の薔薇には十字架が斜めに突き刺さっている。まるで葬式を詰め込んだような舟だった。誰も漕ぎ手はなく、漣の気紛れに全てを委ねられて、薔薇の咲く水面を漂っている。柩舟は何もせずに、漣の心に任せては、何処へ行くでもなく水面の暗がりを渡っている。目が見えなくなるような白さの雪に紛れて彷徨う姿は、見放されたもののようでもあった。いなくなっても、誰かに探されることのないもののように。
 何処かから黒い花びらが飛んできたのはその時だった。雪を避けながら飛来した花びら──黒い花に似たそれは、何の模様もない黒蝶だった。黒蝶は、積荷の薔薇に刺さった十字架にとまって、羽を休めていた。そして何かを届けると、舟の周りを舞い始める。何処かへ行こうとせず、何かを待つような寄り添い方をしていた。
 届けられたのは、目覚めであった。香水を作るときよりも要される量の薔薇の中から、白いものが蛇のような動きで空へ伸ばされる。それは左手だった。関節と関節の間が長い指が現れたと思うと、黒い袖を纏った腕が、薔薇をかき分けて外気に触れる。外の空気を感じた手のひらは、しばらく指の行き先を探しあぐねていたが、やがて刺さっていた十字架に触れると、それを抜き取った。十字架が抜き去られると、舟に積まれていた薔薇が炎となって散った。
 十字架を突き刺され、薔薇に隠されていた麗人は、炎の気配が消えるのを待って十字架を水に捨てた。力なく船べりに乗せた腕が、掴んだ十字架をそっと手放す。液状の鉛を身体に流し込まれたように、動作の一つ一つが重たかった。誰の目にもその造形が美であると解析される美貌は、眠ることに嘆いて悲しみに暮れている。その憂愁は誰が見るところではないが、憂いが退屈の原動力になっていることを誰もいない場所で語っていた。頬を焼いてきた悲しみの全てをなぞるような激情が、麗人の内側に刃を向けている。戯れに抉り直す傷の痛みで、自らを傷つけていた。激しい運命が、悲しみ一つにさえ激情を求めていた。
 寒さを感じることもしないまま、麗人は舟に横たわったままで水に運ばれていた。死後硬直のような瞼をしていた。凝然と、伏せられることのないまま動かなくなってしまった瞼のようだった。切れ長の目は曖昧に開かれたままでいる。その縁を囲む長い睫毛が、悲しみよりも青い瞳と、睫毛が長い下瞼に鋭い影を落としている。雪片もまた美貌に落ちる。白粉のように。一度も陽光に曝されたことがないほどの肌に溶ける。雪に白を重ねられて、麗人の美貌から生気が希薄になっていく。舞い落ちるその白に、麗人は悪意を感じながらも、瞬くことはしなかった。希釈される肌色。希釈される生命の匂い。白で塗り重ねて闇はなくなっていく。白の上塗りで体温が希薄になるほど、残された美が濃く、生々しく、鬼気迫る妖気冴えて香りたつ。
 存在が澄んでいく。美は彫り深く、また業深く。施される死化粧に眦の酷薄を増しながら、麗人は幸せのことを忘れていた。美しい自分の存在以外に、何かを必要とすることを忘れていた。麗人は無粋なものを取り払った抜け殻に残された美であった。この水葬は、全ての無粋に捧げられたものであったのだ。
 死と世界に勝利する美だけが、横たわる。
 永遠の名を騙る数十年。刹那であると嘯く長い激痛。偽りなど要らなかった。騙すものの全てが、生きられぬよう呪いあれ。美しいまま、美しいまま。美を欺く時刻(とき)の嘘は、生きられなくなればいい。
 死と世をねじ伏せる完全美と引き換えに、愛したひとの思い出を捨てた。愛されていた思い出も捨てた。誰にも奪えない思い出ならば、自らの手で斬戮するのみ。思い出が思い出されることを、思い出せなくなるくらいに斬り刻んだ。二度とまともに歩けぬように。そして自分もまた、誰かの思い出になってやる義理も筋合いもない。誰かの思いのうちに留まっているつもりはない。悪夢になることはあっても。
 麗人は左手を暗い空に伸ばした。薄い唇に皮肉げな痙攣を添えながら。ひび割れた微笑みは、魂の慄えに酔いしれていた。誰よりも激しく残酷に生きて散る美しい運命を演じる悦びに慄えていた。彫刻のような指先に、黒蝶がひらりと留まる。
 恋に落ちるには美しさが過ぎ、闇に落ちるにも美しさが過ぎ、愛に落ちるにも美は過ぎて禍々しい。麗人が堕落できる天国は無く、最早どのような暗澹も、どれほど恐ろしい断頭台も、抱きとめてはくれないのだ。
 厳格な慨嘆に包まれて、麗人は漂い続けた。
 漣に身を任せたまま、自分の嘆きはどうしてこうも傲慢にしかなれないのかと思って笑った。

(誰か)

 麗人は呼び掛けた。投げやりな呼び掛け方だった。返事が来ないことを、分かっているような口ぶりだった。
(僕と恋に落ちられるくらいの器量ある運命を持っていないかな)
 自らの激情にふさわしい、同じ睫毛をしている者を、美しい運命を持つ者の心に、あても無く問いかける。

(出会おうよ、そして──)

 麗人はそっと、伸ばした腕を下ろした。黒蝶がとまった指先で、唇を覆うと、傲岸な睫毛を半分伏せる。血に飢えた美が貪婪な光を、青い瞳に沈めていた。

(──殺し合おう)

 自分を悲劇の英雄にしてくれる気概ある者と、有り余る美の暴力で刃を交えたいと思ったのだ。冷たい嘆きにくれて水に流されゆく、虚しい死になってみたかったのだ。
 麗人を乗せた舟は流れていく。漣に流れていく。必ず麗人が、薔薇として迎えられる土地へと、漣は気紛れに微睡むことを続ける。薄墨色の水は麗人がもたらせた涙の全て。水に咲く薔薇は斬戮した思い出の亡骸。漣は、何処までも続いている。死の消えた柩が何処かへ辿り着く頃、運ばれたものは美だけになっている。麗人は美に、堕ちることも死ぬことも許されない。薔薇の宿命のままに。薔薇の宿命のためだけに。

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