見出し画像

掌編小説【薔薇喪失】24.夥しく心臓は滴る

 薔薇庭園(ゴレスターン)には、潤ったものがない。
 麗人は玉座に腰掛けて、長い脚を組んでいた。尖った顎を傲慢な角度に浮かせて、長い睫毛の影を青い明眸に落としては、影が刻んだ深淵に酷薄な光を宿している。麗人の前には、数人の人間が引き据えられていた。
 薔薇庭園の序列は、薔薇王である。その次に、古(いにしえ)の薔薇王が庭園の統治を委託した一族である『骨』の家系の人々が来て、薔薇である住人たちはその下に値する。だがその支配階層の一番下に組み込まれる、奇妙な身分の者たちがいた。その人々は、家畜と呼ばれていた。長らく家畜としての役割は無くなって、薔薇庭園の城砦の外にある区画に暮らしていたのだが、麗人という薔薇王の再臨によって、再び家畜という身分が捧げなばならない義務によって集められていた。

「薔薇、食べるの、飽きちゃったな」

 麗人に傅(かしず)く骨一族の者たちは、麗人が薔薇庭園の住人たちが主食とする植物を食べられないために、麗人の食事には薔薇を捧げていた。ある日、麗人が薔薇を食べることに食傷したと呟くと、骨一族の者たちが家畜を連れて来たのである。
 家畜というのは、人間のことであった。昔、潤いがなく庭園の主食を食べることができない薔薇王が摂取していた食料が、人間であったのである。人間は広義の家畜として飼育されている奴隷であった。食料として身を捧げることの無くなっていた期間は労働力を提供していたが、甦った義務は残酷極まりなかった。
 麗人は、自分と同じ人間を捧げられた滑稽を、笑うことはしなかった。人間であることが薔薇庭園で潤いを存在させる唯一の方法だとすると、納得できたのである。人間として表皮に守られていれば、潤いは干からびることがない。麗人が存在できる理由と同じである。尤も、皮肉なことには変わりなかったが。連れられて恐々としていた家畜たちであったが、玉座の間に通されて麗人の美貌をひとたび見るや、瞳を濡らしていた怯懦を忘れたようであった。麗人は傍らの台座に置かれていたグラスの中で燃えている炎に口をつけて、一口飲んでから、しばらく頬杖をついていた。骨の一族の人々も、薔薇王がこの家畜をどうやって摂取するのかを知らないので、連れてきたところまではよかったが、どうしたものかと囁き合っている。
 麗人は玉座から立ち上がる。しかし立ち上がっただけで、食料に近づくことはしなかった。先頭に立っていた奴隷の目を見据えると、その瞳を覗き込む。その刹那、放たれた睚眥が牙を剥いた。
 悲しみよりも青い視線は妖艶だった。麗人は奴隷に触りも擦りもしていないが、その場にいた全員が、豪快な咀嚼音を聞いていた。噛み付く音だった。妖美な視線が、心臓に牙を立てたのである。
 瞬き一つの鮮やかさで、家畜の内側から心臓が抉り出される。麗人は指先さえ触れてはいない。内側だけで生じた渇きが、身体を破って心臓を抉り出したとき、麗人の、陽光を浴びた経験が微塵も感じられない白い喉が、確かに上下した。色味に欠けた薄い唇は、粘り気のある赤でべたべたに濡れていた。家畜は心臓を啜られると同時に、渇いて萎びた植物のようにくずおれる。
 悲鳴と断末魔は、骨一族や侍従の薔薇たちのものだった。奴隷たちは次々と、心臓をうろにされて倒れていく。おぞましい景色だったのだ。麗人がしていることと言えば、傲岸なほど美しい睫毛で睚眥をくれているだけにすぎない。にも拘らず、その視線は心臓を喰らっているのである。一滴も残さず、血を啜り尽くしている。美しい視線だった。恐ろしい目の光だった。一瞥だけで心を奪う魔力を、睫毛が擦過する一刹那のうちに暴力に変えて現実に干渉する力にしていた。骨一族も薔薇たちも、麗人が視覚的な悲惨を演じて家畜を食べると思っていた。だが、触れもせずに心臓に牙を立て、一雫も余さず生命を直に喰らった、一見何をしたかも分からない食事にただただ慄えることしかできない。

 しばらく時間が過ぎても、惨劇に遭遇したかのように、薔薇王以下の序列の人々は言葉がなかった。また、動くこともできずにいた。恐ろしいものを見ていたくない一心で、次から次へと家畜を連れてくることで気を紛らわせていたのだった。
 麗人は、数十人分の心を啜って、ようやく満ち足りたような表情になっていた。眉を開いて、炎のグラスに新しい炎を注ぎ、それを飲んでいる。
 麗人は美しいまなざしと鋭い睚眥で心を文字通り貫いて奪ったのだ。何が満ちたのかは従う者たちには分からなくて、何から生じる萎縮なのか分からない痙攣による支配に沈黙している。
 麗人は満足げに炎を飲んでいた。食事の後に飲む、水の代わりだった。

「愛しておくれよ、優しい心で……」

 麗人は詩を口ずさむかのように呟いて、赤い唇に指を這わせていた。血でどろどろになった指の腹を、ぺろりと舐める。
 麗人は吸収効率が悪い血を、吸血という野蛮を行わないで、生命の部分のみ啜り尽くしていた。命を、生きているものを死に変える暴力だけが、横たわる。
 麗人は唇の端に笑みを溜めると、炎のグラスを杯のように掲げて、血塗れの唇に当てがった。グラスの中で燃える炎は、見る者たちに夥しい心臓の滴りにも見せていた。まだいくらでも命を吸い尽くせるといった余裕が垣間見える、美貌の不気味な妖艶は、いつまでも癒えることのない貪婪の気配が匂い立っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?