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掌編小説【薔薇喪失】36.手帳の余白と先約主義

 誰もいない執務室に、風がこそりと入ってきた。少しだけ開いていた窓から、吹き抜けた風。少し前まで誰かいた薔薇の血の青みが匂い立つ室内、机の上に置き去られた手帳は開かれたままだった。一日の予定を書きこむ、その日の日付が横たわる。誰に見られても構わないのか、手帳は無防備に、奇妙な余白を曝していたのだった。昼下がりのある数時間。何かの予定があることだけを意味するように、時間を区切るような書き込みだけがあるものの、用事が何なのかは空白にされていて窺い知れなかった。
 風は手帳に悪戯をした。薄い紙の上を吹き抜けていったのだ。手帳はばらばらと音を立てながら、ページをめくられていった。紙は翻る。文字が躍る。一定の間隔で現れる、予定がある旨だけを書き込んだ空白──麗人はすでに、外出していた。豪奢な長外套を、ばさばさと翻して──

 長外套の端を風に翻し、広い肩で風を切る。色眼鏡に隠した明眸を、誰もが見ることはできなかった。それにも拘らず、すれ違う人々は麗人の覇気に、意識が微動する間もなく、従うことをして道を作っていたのだった。
 雑踏の群れに覇気が滴る孤影、足元に落ちる幻めいた虚影。昼下がりの喧騒を、麗人は悠然と歩いていた。決まった時間。決まった曜日。いつもの、店。麗人は懐中時計の蓋を弾いた。時間を気にすることは、麗人があまりしないことの一つだった。他の誰かと関わるのに、時間を気にする必要がなかった。時間を気にするのは、いつだって麗人の相手に相当する人物の仕事であるからだ。麗人はちょうどいい時間についたと思いながら、時計の蓋を閉じて、長外套のポケットにしまった。
 麗人が持ってきたのは、財布と小さいノートだけだった。使い込まれた万年筆が、ノートの表紙に差し込んである。厳ついファーコートはいつもの装いだが、麗人の手帳の空白を埋める予定の時に、持ち出すものとして決まっているものだった。
 誰と予定を組んだわけでもなく、麗人が向かった先はある喫茶店のテラス席だった。他にも客はいたが、よく見ると、全員が蝋人形だった。麗人はわずかな荷物を片手に、蝋人形たちのテーブルの奥にいる誰かを見つけて近づいた。昼下がりに感じる特別な物憂さに倦んだ美貌は、待ち人の姿を見つけて薄い唇を綻ばせていた。
 テラス席で待っていたのは、麗人だった。黒緑色の、柔らかな波を描く長い髪を持つ、美しく作られすぎたあまりに不吉を誘う美貌を色眼鏡で隠している。豪奢なファーコートを羽織って、テーブルの上には先に頼んだらしいコーヒーと、持ってきていた財布とノート、万年筆がそっくり置いてあった。麗人は麗人と同じく、昼下がり特有のうなされるような重みのある倦怠にぼんやりしていた。ノートは開かれていて、綺麗な字で何かメモがされていた。
 麗人は待っていた麗人が開いているものと同じノートと万年筆、財布を置いた。物憂い横顔をして、暇そうに通りを眺めていた麗人は、窘めるように呟いた。

「遅かったね」
「? 時間通りに来たのだけれどな」
「僕が早かったのかな」
「まあ、いいじゃない」

 便宜上分けられた麗人たちは、席についた。後から来た麗人もコーヒーを注文する。先にいた麗人はしれっと注文を済ませていたが、麗人がまたコーヒーを頼んでも、給仕の少女は何事もない表情で微笑んでコーヒーを持ってきただけだった。
 昼下がり特有の物憂げな陽気だった。空費されていく憂鬱のままに、麗人は麗人に近況を尋ねた。文字で埋まった、余白という言葉を知らないノートを開きながら。会議にしては緩く、話し合いにしては重々しかった。指先、長い睫毛の先端、細部まで精巧に緻密に構築されて美しく作られすぎている美貌にうんざりしながら、麗人と麗人は、切り離した自分と話をした。

「最近、何か美しいものを見たかい?」
「そうだね、僕の顔とか。それくらい」
「そうだったね、それくらい……ああ、そうだ」
「どうしたの、何かあった?」
「花屋さんでね、薔薇を選んでいるおじいさんがいたんだ。誰にあげるのかなって」
「それは素敵だね。いいものを見たんじゃないの?」
「僕もそう思うよ」
「僕も帰りに、薔薇を買って行こうと思って」
「奥さんに買うんだろう?」
「うん、僕の分じゃない」

 周りの客たちは、全て、蝋人形の群像だった。薄い微笑みを唇の端に湛えてコーヒーを啜る麗人たちの間を駆け抜けた風が、文字で埋まったノートのページを悪戯にめくっていた。

「ねえ」「何?」
「皆は、どうやって休んでいるのかな」

 周りの客人が皆、蝋人形であることを、麗人は知っていた。存在することだけを成し、生きることを成さず、雑踏を成すだけの影々を。他人とばかり言葉を交わす人々を、他人を愛する人々を。
 部屋に置いてきた、手帳の余白。大事に取っておいた空欄は、先約主義を果たすための空白だった。自分とだけ、語らう時間。この休息がなければ、生きてはいけなかった。誰かと話す前に自分とだけ言葉を交わし、誰かを愛する前に自分を愛し、誰かと結婚する前に自分と結婚する。そこにあるのは倦怠に包まれた悠然の自愛と静寂、自己愛が息をする場所はない。麗人は自分との先約を果たすことでもまた他人からの侵略を浄めている。薔薇の血を、吐くことよりも呻くことなく。

「僕みたいに、自分と話す人というのは……どれくらいいるんだろう」
「あんまりいないだろうね」

 麗人は青いレンズの色眼鏡を外した。睫毛の長さは、日常に反するほど長く雅で、いっそ殺伐としていた。悲しみよりも青い瞳に影を落とし、嘆かずとも慨嘆を嘘として扱える覇気があった。その心が、何を思わずとも。

「皆、他人が大好きなのさ」
「そして、自分を見たくないんだよ」

 達観よりも遠い目をして、麗人はコーヒーを啜っていた。麗人は、蝋人形たちとは同一線上に立っていなかったのだった。

「楽しいのにね、勿体ない」
「僕と話すことがだろう?」
「そうそう」

 麗人は麗人と笑っていた。笑うのが楽しくて、笑っていた。互いの美貌には、うんざりしていた。そのことがまた、たまらなく楽しかった。

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