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掌編小説【薔薇喪失】29.殺し屋の善良

 殺し屋という仕事は、革命家よりも善良な職業だと、炎が灯った薔薇を手にした麗人は思っていた。責任などという言葉を、大義によって喰らい尽くしたような、食傷による眠気が瞳の色を朧ろにしていた。殺し屋は時間をかけない。殺す相手だって、正確に決められた人物のみが対象になる。革命はどうして、殺し屋のように正確に人を殺す力がないのであろうかと、麗人は無益な心の赴くままに、ただ思うだけのことをして、無責任な風情を美貌にのせていた。酷薄と無関心とが、違う方向を向いたままで互いの片手の小指だけを絡めているような乾燥がずっとそこにある。
 歌が始まる前のような静けさを、死の匂いが漂っていた。血の匂いはすでに乾いていたが、死だけが蟠ることをいつまでも続けていた。死が起こりすぎるあまりに、麗人の中で死の質感は希釈されたみたいに薄まっていた。水のような味になってしまう気配がした。質感を失えば、麗人に死の感覚も概念も、そこにある悲しみも重みさえも、消えてしまうということだった。その危うささえ、麗人はこの瞬間から刻々と失っていることに気がついていなかった。
 麗人の前には、死者の骸が山となって積まれていた。一山の死者は、とってつけたように置かれた薔薇を結界にして囲まれている。麗人は自分が持っている炎を宿した薔薇の花を、死体の一つに傾けて、清らかな炎を分け与えた。死と死者、血が染み込んだ布が、ゆっくりと炎に包まれていった。蛋白質が燃えるときに生じる悪臭を、麗人はすでに識別できなくなっていた。匂いが分からないのではなく、死にまつわる嗅覚が、その質感を忘れていた。麗人が死を忘れてしまうこと、死が何たるかを分からなくなるまでの時間は、そう長くはない風情を、麗人は分かっていない……
 麗人は記憶を遡りながら、徐々に火の勢いを増していく一山の死者を見つめていた。美貌は、何かを思い出そうとしている表情のままで佇んでいる。炎が灯った薔薇を唇に乗せて、沈黙を焼きながら、遠ざかる死の中に埋もれた誰かを探していた。
 燃やしたい死があったのだ。誰かを殺したかったような淡い記憶があった。しかし、その記憶が全く当てにならなかった。思い出せる正確なことは、一人を燃やすのは効率が悪く燃えづらいから、死体を集めたことだった。
 麗人は目の前で燃えている死者の山のことを忘れながら、死者を集めていたことに考えてを集中させていた。長い睫毛が全く瞬くことをしていない。麗人が何か考え事をしている時によく見せる凝然だった。瞬きを忘れるのだ。悲しみよりも青い明眸には、そのときに考えていること以外のものが一時的に死んでしまう。
 死体を燃やすための死体を集めて、大義を作っていたのかも知れなかった。身分のない死を、必要に感じて集めていたのかもしれなかった。死を集め過ぎたあまりに、麗人の内側で、死は希釈されてゲシュタルトが綻びていることは確実だが、やはり最初に殺した者のことは思い出せなかった。
 死ななければならなかった人々。麗人が美しく生きているだけで、死を強いられた人々の亡骸……麗人は顔を上げた。そこで初めて炎に包まれた死体の山に気がついたみたいに、長く傲慢な睫毛を間抜けに瞬く。死体を隠して死体で燃やす皮肉のことも、麗人は今初めて見たようにまじまじと見つめていた。皮も肉も燃えている。白皙の美貌の何処にも、悪意はなかった。死の感覚が息を引き取ろうとしていた。それは悪意を抱けなくなるほどの大義が、麗人の美のうちに生じていることを示していた。
 美しい絵画を額装するための、優美な懊悩が麗人の頭の片隅に掠めた。それが死の匂いだと分からない死臭の中に佇んで。炎を見つめる麗人がしていることは、炎の中に消えていく亡骸を忘れていくことだけだった。だがその優美な瞬きは炎と死を閉じ込めて美々しく厳格に葬るための、革命という名の額縁を選別するかのような残酷な支配者の妖気に冴えている。どんな理不尽さえ尊い大義に見せてしまう魔術的額葬を、死を忘れた明眸は怜悧な光を沈めたまま淡々と選別している。
 ぬるい雨が降り出した。革命という名の、血の雨だった。絞られた死生が麗人を汚す前に、麗人が持っていた薔薇は、大きな赤い傘になっている。麗人に血の雨は一滴も触れなかった。一山の死者は、今度は血の雨に打たれて火勢を増していく。ひと一人分の血痕が、名のない流血でそそがれていた。麗人の大義が、貪婪に血を啜っていた。今降っている血の雨も、誰の命だったものかなど、麗人が知る由もなかった。
 麗人は赤い傘をさしたまま、無表情に炎を見ていた。表情が消えると、麗人の顔には美だけが存在していた。酷薄であることが似合う美貌は、今や隠したいものもなければ、不都合も後ろめたさもなさそうにしていた。死を焼いていることから、何かが生じる心の質感を、失っていた。死は、何かを彷彿とさせることがなくなっていた。誰かが死ぬ喜びも悲しみも。まだ名前がない巨大な悪意のゲシュタルトが、死にまつわるあらゆるものを飲み込んでしまっていた。
 痛覚が消えて、虚しいことを虚ろだとも分からない麗人は、低い声で笑っていた。
 麗人は殺し屋にはなれないのだ。美しく生きる宿命にあるからには。
 革命が殺したかった本当の人数が何人だったのかを、心の中で自問した。きっと大した数ではないのだと思うと、低く笑うしかすることがなかったのだ。
 誰の死を焼いているのかなど、最早どうでもよかった。何より殺したかったわけでもない。麗人は誰にも手を下していない。薔薇の宿命が下賤な返り血を、傘となって防いでいるから、麗人は血を被れない。
 麗人の美は、都合よく一人だけを狙いすまして殺せるような力ではなかった。革命的な美を想いながら、麗人は血の雨の中で傘をさしたまま、笑うことでしか自らの美の皮肉を見つめることができなかった。

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