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掌編小説【薔薇喪失】23.淡くほどけて薔薇は触れる

 薄い花びらが、そっと離れた。離別の一刹那さえ惜しむように、花びらは再び、淡く触れる。柔い感覚だけを、重ねていく。触れ合っているのか、儚さが酷くて、危うかった。震える吐息を奪って生きている何かのように、淡いという言葉よりもほどけた密度の唇が、もう何度目になるのか分からなくなった口付けを重ねていた。言葉はなく、終わりもなく、愛と、悲しい想いを紡いでいた。幾重にも愛し合った唇は、触れ方が淡いのに濃密であった。
 細い腕が、広い肩を抱きしめていた。葡萄酒に似た赤みの瞳は、今にも涙に変わるように、溶け出してしまいそうな優しさに溢れている。美しさと愛らしさが、完全に合わさった美貌。
 誰もいない部屋のソファーで、麗人は美しいひとの、柔らかな長い金髪に指を通した。細い身体と小さな肩を抱いて、虚ろな心の赴くままに、淡い口づけをずっと続けていた。時計の針を、壊したままで。麗人の美貌には獰猛な影が落ちている。得られないものを求めるような飢えに慄えながら、口づけには凄絶な激情が宿っている。
 麗人がこの世でただ一人、美しいと思ったひと。美しく愛らしく、天使が存在するのならば、彼女のような心を持っているのだと思わせる女性だった。麗人の美しさだけを、愛する真似をしない女性だった。あとは、小さいうさぎに何となく似ている。
 淡いのに、終わることがない口づけ。何かを奪うような唇。どれくらいの時間がすぎたのかも忘れて、麗人は左手で彼女の左手をとった。絡めた指先、薬指には、径が違う、大粒のサファイアが輝く指輪が光っている。
 小さな手で、妻は麗人に問いかけた。

「寂しいの? 悲しいの? あなたは、青い目をしてる」
「僕は元々、青い目をしているよ」
「そうじゃないの、寂しそうな青を、しているから」

 妻は麗人の胸に頬を寄せた。心の芯が冷え切っている麗人を、知っているかのように寄り添った。

「堕ちることも、死ぬことも、美しさに赦されないひと……」

 麗人は妻を抱きしめた。その腕は、凍えている者のようだった。麗人は悲しみと虚しさに投げ出した心に従って、他の何にも癒せない心の飢えを嘆いた。

「僕のものに、なってくれないか」
「もう、あなたのものよ?」

 麗人は微笑まれて、また黙った。
 愛の涯てに行き着く場所を、想った。想い合い、愛し合うことの先に、行ける場所があるのだろうかと自分に問いかけた。夫婦という相思相愛であることの先に、何があるのか。何処か行けるような場所があるのか。
 終わりのその先、行き場のない愛。死ぬときは一人、後を追うときも一人。共に死ぬことができるのなら、それはきっと、美しく愛おしい場所へ行けるのだろうと、麗人はぼんやりとした頭の片隅に思った。
 行先だった愛が、いつしか帰る場所になっていた幸せのことを忘れていた。忘れたままでいたかった。終わりの先へ、もう何処へも行きようのない愛を連れて、妻を攫ってしまいたいと思った。愛したい想いは、満たされないまま、愛おしい気持ちだけが、今や何もかも壊してしまえる暴力を隠した衝動になっている。
 妻は麗人の頬に触れた。少し、痩せたような気がしていた白い頬。

「愛しているって、あなたは私に囁いてくれる……でもあなたは、愛して、とは言わないわ」

 麗人は妻の唇に、指先を置いた。高貴な薔薇を思わせる、上品な唇の柔さに触れて、小さな頬に手のひらを滑らせる。麗人は長い睫毛の影を、悲しみに翳った青い瞳の闇に塗り重ねた。愛してくれと、言えなかった。

「薔薇を、くれないか」

 麗人が呟くと、妻は何かがほどけるように、はにかんだ。

「いけないひと……」

 抱きしめるために、華奢な腕が伸びて、麗人の首筋に触れる。
 妻が麗人の唇に触れようとしたとき、吐息が触れた一刹那。麗人は妻の唇を奪った。贈られるはずだった愛を、奪い取った。

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