「忙しくあれ」の呪縛と、カルチャーショック
常に動いていないとダメだと思っていた。
「何もしないをする」のは、忙しい人がそれをしたいと言うためだけに存在するのであって、実体はない。常に何かをしているのが「普通」で、そのほうが楽しいに決まっている。
疑いもせずそうそう信じていたものだから、社会人になって1年目、業務にプライベートに忙殺されて、週末はベッドでiPhoneと友達という生活は怠惰の極みだと罪悪感に苛まれた。
しばらくして社会人の生活にも少し慣れて、東京での遊び方も少しわかって、ベッドから抜け出して人と会ったり、能動的に何かに参加したりするようになって、毎週末常に何かしら予定があることは、充実感があったし、間違いなく楽しかった。
動けば動くほど楽しい。何もしないのは停滞。会社を辞めて行った留学中も、週末は家にいないで出かけた。止まったら死ぬから泳ぎ続ける魚のようだ。今思えばハイだったのかもしれない。
だからオランダで目にした光景は衝撃だった。
初めて相方の実家を訪れた。
相方の家族の週末。何もせず、iPhoneかiPadか数独を片手に庭に出したソファに腰掛けてのんびり。
私は思わず聞いた、「何をしているの?」と。
相方は答えた、「何もしてないよ。」と。
何も…していないだと……?
もう少し詳しく聞いてみると、のんびりしている、と。
………
のんびりするのを何かをしているかのごとくのたまっていいのかこの国は。というかこの家族は。カルチャーショックだった。
「今日は何するの?」と聞かれると、何か予定を答えなければいけないと思っていた。でも「今日はのんびりする」と答えていいのだ。
このカルチャーに慣れるのには少し時間がかかった。でも割とすぐ、すっと順応した。
そう、それはきっと、私は心の奥で「のんびりすること」を肯定してほしいと常に願っていたから。忙しいが正義の中では、「のんびりする」なんて悪で怠惰だと思っていたから。怠惰である自分を受け入れたくないから、忙しくあることが正義だった。
でもどうやら私の本能は違うらしい。本当は、のんびり、ダラダラしたいのだ。無自覚の本能が表面化して、気持ちがずいぶんと軽くなった。
今でも時々、何もしていない事実に罪悪感を感じて口にすることがある。そんな時相方は、「それは君のnature(本質)なんだから受け入れるしかないよ!」と、爽やかに言い切る。そうか、こののんびりダラダラしたいのも私なのか、とそう言ってもらうたび、再度自覚する。
「何もしないをする」を週末の予定に入れていい日が来るとは思わなかった。すっかりのんびりすることを体得したが、時々罪悪感の粗が出てくるのは、まだのんびり中級者、と言ったところだろうか。
さて、今日を越えたら週末。思いきりのんびり、ダラダラしよう。
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