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死と意識:汎心論から汎情報処理論へ

※このコラムでは汎心論を扱いますが、スピリチュアルな話題にはなりません。あしからず。

1.はじめに

人間に意識が存在することを、ほとんどの人は疑わない。人間は、考えることができ、感じることができる。犬や猫に意識があることも、多くの人は認めるだろう。彼らも感情表現が豊かで知能があり、意識を持っているのだろう。では、ネズミはどうだろうか。魚はどうか。昆虫になると、意識を認めない人の方が多いかもしれない。ウィルスに意識は?

ロボットやAIに知能は認めることはできても、意識と言われるとよくわからない。植物の意識なんて、皆目見当も付かない。人間以外に意識を持つ存在は何であるのか。意識のあるなしをどこかで線引きをすることは、どうしても恣意的になってしまう。

私たちは、意識があるものとないものを明確に区別できると思いがちだ。人間には意識があるが、石には意識がない、といった具合に。しかし、意識の有無を「ある/ない」という二元論で捉えることは、実は非常に困難なのである。

これは、意識を連続的なスペクトラムとして捉える必要があることを示唆している。つまり、意識は「ある/ない」という二元論ではなく、程度の差があるものとして考えるべきなのだ。

意識を「ある/ない」という二元論ではなく、連続的なスペクトラムとして捉える必要があるという考え方は、汎心論への支持につながっていく。汎心論は、すべての物質に、程度の差こそあれ意識が宿っていると主張する。人間だけでなく、動物も植物も、さらには無生物も、何らかの意識を持っていると考えるのだ。

これは、意識の有無をどこで区切るかという問題を根本的に解決するアプローチである。あらゆる物質に意識があるとすれば、意識の有無を線引きする必要がなくなるからだ。

従来の汎心論では、すべての物質に意識があると主張するものの、意識の成り立ちや意識レベルの差を説明するメカニズムが十分に示されてこなかった。例えば、個々の意識を持つ物質がどのように組み合わさって、より複雑な意識体験を生み出すのか、といった重要な問題点が残されていたのだ。

そこでこのコラムでは、情報処理の観点から汎心論を捉え直してみたいと思う。我々の脳は、外部からの入力を処理し、出力を生み出す一種の情報処理システムとみなすことができる。そして、この情報処理のプロセスが、我々の意識体験と深く関わっていると考えられるのだ。

つまり、意識を情報処理の一種として定義することで、従来の汎心論の問題点を克服し、意識の本質により迫ることができるのではないか。この考え方に基づき、情報処理の観点から汎心論を再定義することで、汎心論の主張をより明確で説得力のあるものにできるだろう。

以下では、まず汎心論の基本的な主張を確認した上で、情報処理の観点から、汎心論の再定義を行う。そして、この定義がもたらす利点と課題を検討し、汎心論の抱える問題を克服する可能性を探ろうと思う。その結果として、意識の問題への新たなアプローチの提示となるだろう。

2.汎心論とは

汎心論(パンサイキズム panpsychism)は、「すべてのものに心がある」と主張する哲学の立場だ。つまり、人間だけでなく、動物、植物、さらには石ころや素粒子のような無機物にさえも意識が宿っていると考える。あらゆるものが何らかの意識を持っているという立場だ。

一見突飛な主張にも思えるが、汎心論自体は古代ギリシャ時代から存在し、かつ、近年、再評価が進んでいる。哲学者や科学者にとって、少なくとも無視することはできない、というのが汎心論だ。

現代科学では、意識がどのように生み出されているのかを、上手く説明できていない。(個人的には別のコラム『意識はハート♡プロブレム:知覚・体験・意識の連続性』で意識の問題に一定の答えを出したつもりだが、それは置いておくとして)いまのところ、誰も説明できたとは認められていない。

この問題は「意識のハードプロブレム」と呼ばれている。物理的な脳のプロセスがどのように主観的な意識体験を生み出すのか、という問題だ。脳の仕組みをいくら解明しても、なぜそこから意識が生じるのかを説明するには至らず、現代の科学が直面する最大の謎の一つとされている。

汎心論は、この「意識のハードプロブレム」への一つの回答となっている。回答と言うよりも、汎心論に基づくなら「意識のハードプロブレム」は存在しない。なぜなら、意識を物質の基本的な属性と考える、すなわち、あらゆるものが意識を持っていることが前提なので、意識がどのように生じるかを考える必要がそもそもないのだ。

もちろん、ひとくちに汎心論と言っても、いくつかのバリエーションがあるし、意識の内容がどのようなものなのかについても、様々な見解がある。そして、汎心論には汎心論特有の問題があり、その説明も避けては通れない。例えば、個々の意識を持つ単純な物質が、どのように組み合わされたら、複雑な意識体験を生み出すのかといった問題だ。これらの点については、後ほど詳しく検討したい。

3.汎心論の再定義

情報処理の観点から汎心論を説明してみたい。ここでは、意識を「何らかの入力に対して何らかの出力があること」と定義する。

情報処理とは、入力情報を処理し、出力に変換する過程のことだ。コンピュータはまさに情報処理を行う機械であり、入力されたデータに対して計算を行い、結果を出力する。人間の脳も一種の情報処理システムであると捉える考え方を、情報処理主義と呼ぶ。

感覚器官から入力された情報は、脳の様々な部位で処理され、最終的に行動や思考として出力される。例えば、目に入った光の情報を脳が処理することで、私たちは周囲の状況を認識することができる。また、過去の記憶や知識に基づいて情報を処理することで、私たちは意思決定や問題解決を行っている。

情報処理主義の立場から意識を捉えると、意識とは情報処理の産物であると考えることができる。つまり、脳が情報を処理することで、意識的な経験が生じると言えるのだ。

この考え方は、汎心論と親和性が高い。汎心論は、すべての物質に意識があると主張するが、情報処理の観点からは、物質が何らかの入力に対して何らかの出力を返すことが、意識を持つための必要条件であると考えられるからである。

すなわち、意識とは何らかの入力に対して何らかの出力がある、と定義できる。

例えば、石に熱を加えると、温度が上昇する。このとき、石は熱という「入力」に対し、温度変化という「出力」を返している。これは一種の情報処理とみなすことができ、これを、石の「意識」だと考える。

この定義の利点は、意識を物理的な因果関係と結びつけられる点にある。入力と出力の関係は、物理法則に基づいた因果関係そのものであり、意識は物理世界に内在する性質の一つとして捉えられる。つまり、あらゆる物質が何らかの意識を持つというのは、あらゆる物質が何らかの入力に対して何らかの出力を返すということなのだ。

さらに、この定義によって、意識レベルの差を説明することも可能となる。

例えば、無機物の情報処理は単純な「入力→出力」の関係だ。一方、生物(と、とりあえずは言っておく)の情報処理は「入力→処理→出力」という、より複雑な関係であると示すことができる。入力された情報が内部で処理され、その結果が出力される。

この情報処理の複雑さの違いが、意識のレベルの差を生んでいると考えることができる。単純な情報処理しかできない石の意識は非常に原始的なものだろうと想像できる。一方、複雑な情報処理を行う生物などの意識は、(石に比べれば)より高度で豊かなものになるだろう。

このように、情報処理の観点から意識を再定義することで、意識の成り立ちをうかがい知ることが可能となる。このことは、汎心論を支持する根拠の一つなのだ。

ただし、この「意識とは何らかの入力に対して何らかの出力があること」という定義には二つの課題がある。

ひとつは、意識の定義の広さだ。この定義では、あらゆる物質や現象が意識を持つことになる。コンピュータの計算や植物の光合成なども意識的な活動とみなされることになり、一般的に理解される意識の概念とはかけ離れているだろう。

しかし、これは汎心論の立場からすれば当然のことである。 汎心論の「すべてのものに心がある」という主張を、情報処理主義で読み替えると、「意識とは何らかの入力に対して何らかの出力があること」という定義になるのだ。

もうひとつの課題は、主観的経験になるだろう。この定義では、物質が情報を処理していることは説明できても、その物質がどのような主観的経験を持っているかは説明できていない。多くの場合、意識には、感覚や感情、思考など、主観的な質感が伴うと考えられているが、入力と出力の関係だけでは、その説明は困難だ。しかし、主観的経験について、このコラムでは言及しない。稿を改めて説明するつもりだ。

このコラムの目的は、意識についての新たなアプローチの提案である。汎心論以外には、実質的に、意識を説明できている理論は存在しない。どんなに精緻に見える理論でも、「意識のハードプロブレム」の説明に成功しているとは言えないのだ。それを思えば、情報処理に基づく汎心論は、意識の謎に迫るための第一歩になっている。

4.汎心論のハードプロブレム

従来の汎心論は、二つの大きな問題を抱えてきた。「理解可能性問題」と「組み合わせ問題」だ。しかし、情報処理に基づく汎心論の再定義によって、これらの問題は解消可能だと考えている。

まずは「理解可能性問題」。これは「すべてのものに心がある。素粒子にもある」と言われても、それが理解できない、という問題だ。確かに、素粒子に意識があるとは一体どういうことなのか、通常、まったくイメージできないだろう。

もうひとつの問題は「組合せ問題」と呼ばれる。素粒子にごく単純な意識があることを仮に認めたとしても、その無数(たとえば10^30個)の「単純な意識」を一体どのように組み合わせたら人間のような複雑な意識になるのかの説明が困難である、という問題だ。

これら二つの問題、特に「組合せ問題」については、「汎心論のハードプロブレム」と呼んで良いのかも知れない。多くの汎心論者が、この問題を説明できていない。

しかし、「意識とは、入力に対して出力を返す情報処理のプロセスそのもの」だと考える情報処理に基づく汎心論は、「理解可能性問題」を回避する。入力と出力の関係は、物理法則に基づいた因果関係そのものであり、これ以上の説明は不可能だろう。

「組合せ問題」についても、情報処理に基づいて説明可能だ。個々の物質の意識は、それぞれの情報処理に対応していると考えれば良い。そして、それらの情報処理が組み合わさり、統合されることで、より高次の意識が生まれると考えられるだろう。

例えば、脳を構成する一つ一つの神経細胞は、それ自体が情報処理を行っていると見なせる。これらの神経細胞がネットワークを形成し、情報を統合的に処理することで、私たちの意識体験が生み出されていると考えられる。

もちろん、これらの説明は仮説の域を出ない。しかし、情報処理という観点を導入することで、従来の汎心論の問題を回避できる。物質と意識の関係を、因果的な情報処理の過程として捉え直すことで、汎心論はより説得力を持つだろう。

5.死と意識

汎心論は、あらゆるものが意識を持っていると考えるので、意識がどのように生じるか、すなわち、「意識のハードプロブレム」を考える必要がない。情報処理に基づく汎心論――もはや汎情報処理論と言うべきなのかもしれないが――は、意識を情報処理のプロセスそのものと捉えることで、従来の汎心論が抱える「理解可能性問題」と「組み合わせ問題」という「汎心論のハードプロブレム」を回避する。

ここでひとつ確認しておこう。「すべてのものに心がある」とする汎心論を支持した場合、死後の世界や、魂の存在などをどう考えるのか。冒頭でも述べたように、汎心論にも様々な立場がある。立場によっては、そのようなスピリチュアルな考えをサポートするのかも知れない。死体にも何らかの意識が残っていると考えることは、汎心論の立場からは十分導出可能だと言える。

しかし、汎情報処理論たる汎心論の立場からは、このようなスピリチュアルな考えは明確に否定される。そしてこれは、「死」とは何かという問いにも、新しい視点を提供する。

死体は、二つの側面から考えるべきだろう。ひとつは、物質としての死体。物質としての死体は、加熱すれば温度が上昇し、圧力を加えれば凹む、というような、入力に対して出力を返すという意味での「意識」はあると言える。もうひとつは、生物としての死体だ。生物としての死体は、もはや入力に反応せず、いかなる出力も返してこない。そこに情報処理はなく、すなわち「意識」はないと見なすのだ。

生物が死ぬと言うことは、生物としての情報処理が行われなくなることであり、そこに意識は存在しない。よって、死後も何らかの「その生物の意識」が残ることを主張するのであれば、そのようなタイプの汎心論を、汎情報処理論の立場からは、まったく支持できない。

もちろん、動物に意識はあるが植物や石や素粒子には意識がないとするような、アンチ汎心論的な立場も支持しない。入力に対する出力がある限り、そこに程度の差こそあれ、意識(=情報処理)が存在すると考えることは、やはり汎心論支持なのだ。

さて、ひとつ言い残したことがある。石の情報処理は単純な「入力→出力」の関係である一方、たとえば人間の情報処理は「入力→処理→出力」という、より複雑な関係であると述べた。この分類だと、人間と石の区別はできても、人間と電卓の区別ができないことになる。電卓も、処理を行っているからだ。

この点については、稿を改めて説明したい。あわせて、人間とAIの区別についても考えるつもりだ。例によって、素人の思いつきではあるのだが。

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