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#5 経験を糧にしよう

どうも、おもさんです。

昨日は久しぶりに何もないオフ日だったので、家族で藤子不二雄ミュージアムに出かけました。チケットが事前申し込み制だったので、しっかり申し込んで当日を迎えました。きちんとお金払い忘れていました。
仕方がないので、「通り抜けフープで入れてもらえませんか?」と尋ねましたがダメでした。家族の視線が痛い。タケコプターでその場を去りました。

ということで、本題。

経験を糧にしよう

いやぁ耳が痛いですね。以前も沖縄に行ったときに飛行機の時間間違えて帰れなくなったり、駐車券なくすのは茶飯事です。とっても信用なりません。大事なものほどよくなくし、忘れる。妻だけはなくさないように生きていこうと思っています。ちなみに私の人生上のやることリスト、最期死に際で妻に「愛燦々」を歌い届けて逝くというのがあります。「愛燦々」はとても好きな歌の一つで、小椋佳が美空ひばりに「愛燦々」を楽曲提供したのが妻の誕生日なんです。はい、なのでそういう運命なんです。これまでのすべての経験を糧にして、妻に届けようと思います。

さて、昨日のnoteでワークショップを行っている旨、書きました。
経験を言語化することは非常に重要な行為だと思っていまして、だいたい常にノートを持ち歩いています。頭の中にあることを言葉にして客観視してみると、「あの感動を文章にすると、なんとまぁ稚拙な表現しか出来んのやろう」と驚嘆の連続でした。でも、面白いもので「その経験自体」は色あせずに体感として記憶されているので、その後に様々な経験が重なるとある時に「あ、しっくりくる言葉見つけた。出てきた」となることがあります。
そうした体験を積むと、言葉は覚えるものではなく、経験されるものだと理解できたんですね。

今現在ワークショップ後は、必ず言語化をするようにしています。
以下にそのレポートの転載をしますが、ワークショップの内容というよりは「経験」というものに言及したので、読んでもらえると嬉しいです。

2024年2月身に気づくワークショップ後記

昨日もワークショップへの参加ありがとうございました。理学療法士、心理師、保険屋、掃除屋と一体何の集まりなのか。一つのテーマを題材にしてそれぞれのキャリアや経験から語られるWSへの感想。今回も非常に楽しかったです。

今回のテーマは、「一緒に動く」。
皆さんは「一緒に」というと、どんなことを連想しますか?
思いを一つに?
タイミングを合わせる?
真似をする?

ここで一つ「経験」というものについて言及しましょう。
例えば「一緒に」を日常生活の中で体感したことがあるとする。
厳密に言えば、その体験に「一緒」という言葉をつけて解釈、あるいは認識したというのが実際である。
つまり、言葉を経験するというのは、厳密には不可能であり、自身の経験に対して相応しい言葉を選択していく、という作業において語彙を増やしていくのです。
だから、経験の言語化というのは大変な重労働だった。そう考えると、文学というのはとんでもない学問だと思いませんか?
言葉の羅列だけで、身体感覚を創発させることも出来るんですよ。
それは言葉という一つの形式を用いて、相手に情緒や経験されうる何かを伝達しているからですね。つまりは、言葉の意味ではなくてその言葉を経験として理解させる。実はなかなかにとんでもない学問なんですねー。

僕の場合は、利用者さんに「君は文学をやりなさい」と引導を渡されました。
まぁたくさん読みました。
最初に紹介されたのが小林秀雄と岡潔の対談集。そこから岡潔の友人で雪の結晶の研究で有名な中谷宇吉郎、さらにその先生である寺田寅彦。この人はアートとサイエンスを融合させたといわれる人物です。西洋で言えばレオナルド・ダ・ビィンチですね。
そして、寺田寅彦のお師匠さんは夏目漱石と続きます。

こうした関係図は非常に面白いですよね。誰がどんな思想に影響を受けたか。そうしたことを見ていくと、特別な存在と思える過去の偉人たちももしかすると僕らと何んら変わらない凡才だったのかも知れない。ただ相手の考えを排他したりするわけではなく、徹底的に言及した。その経験を踏まえて乗り越えた。そうしてその人ならでは思想に行き着いたと考えると、現代においてはまぁなんと言論を戦わせないことか。相手に合わせる、対立しないというような、相手を完全に論破する(ひろゆきがやってるような論点をすり替えて批判するような手法ではなく)度量、そしてしっかりと対立する気概をもつこと。そうすることで、他者とぶつかり世間もまれ、自身を知り、相手や状況に合わせるというのが可能になっていくんですね。
夏頃予定している1日缶詰激詰WSでは、このぶつかるを徹底的にやりたいと思います。

さて、夏目漱石の草枕という作品をご存知ですか?あまりに有名なものですが、以下に転載します。

山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。
とかくに人の世は住みにくい。

夏目漱石 草枕より

言わゆる生きづらさというのは、対人や対環境において感じるものですが、まさかこんな端的な言葉で、美しく表現できるなんてと思いました。
そして、山路をのぼりながらというところがポイントですが、都会の雑踏から離れて自然に回帰しようとした時に、おそらく自身の状態を自然に融合させることで客観視出来たんでしょうね。自然というのは、頼ることは出来ないが、全面的に僕らは頼っているんですよ。雨が降らなければ、日光がなければ今日の地球環境にはならなかったわけで。僕らも現在の形で生命体として存在してたかすらわからない。
つまり、いのちというのは常に自然と共にあった。自然に抱かれて生きてきたというのが実際です。自然科学が横行し、天気というものに対しての信仰がなくなり、単純に確率としての天気しか我々は気にならなくなりました。
昔は雨という単語だけでも、膨大な量の種類がありました。

https://www.rainwear.jp/user_data/raindrops.php

雨を楽しむ工夫のほか、雨に自身の心を重ねたんでしょうね。すごい感性だなぁと思います。ある意味、言葉というのは感性の表れですから、自身の言葉を整理するというのは、自身を見つめ直すのと同義語になるでしょう。
経験というものに言葉をつける。つけた言葉はその時の経験、情念等を想起させる。つまり、言葉は経験そのものであり、経験は自身そのものである。よって、言葉は単なる道具ではなく、その人自身である、というのが粋な尾森の主張です。反論お待ちしております。

ワークショップに来てみませんか?

次回のワークショップは3月22日(金)の予定です。
よう分からんけどなんか興味あるという方、ぜひ。
次回のnoteでは、年始めにワークショップ参加者に送り付けた資料を共有します。

今日はこの辺で途中下車したいと思います。

それでは、また明日。

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