見出し画像

「頑張り」を自分で拾っていく

何で人は頑張るんだろう。
何で人は頑張れるんだろう。
何で人は頑張ってと言うんだろう。
何で人は頑張りを求めるんだろう。

そもそも「頑張る」という言葉が抽象的な時点で、
ここらへんの定義って定かじゃなくて。

だからこそ自分次第で決められる部分はあるし、
だからこそ自分なりの定義を相手にも当てはめることは危険だったりする。

じゃあ、お前の定義は何なんだ、っていうと
頑張りは『自分のため』だと思っている。

「誰かのために頑張る」というのはもちろんわかるし、
自分もそっちのタイプの人間。
でもそれってよく考えると巡り巡って『自分のため』で。

誰かのために頑張ることで、その誰かが上手くいったり喜んでいる姿を見たい、という自分の願望があるから誰かのために頑張れる。つまり行きつく先は「自分」なんだろうなと。

自分が頑張ることで誰かが喜んでくれていたら、それで自分の頑張りは回収されていく。うまくサイクルは回っていく。

またちょっと違う角度で。
自分に対しての「頑張ろう」「頑張る」と、誰かに対して言う「頑張れ」のニュアンスってちょっと違っている気がする。

誰かに対しての「頑張れ」って”祈り”だ。

頑張りを強要しているわけじゃないし、すでに頑張っていることだってわかっている。でも何もせずに見ているだけじゃやだ、だからといって直接何かしてあげられることも難しい。
だから「頑張って」と言わせて。あなたにいいことがありますように、って。そういう感じ。

結局これも『自分のため』だったりする。言いたいから言っている、伝えたいから伝えてる。それでいいと思う。このスタンスであることを自覚しているならば。結果的に相手が成功したり、上手くいったりしてくれたら自分の「頑張れ」は回収されていく

これが『相手のため』だと思っていると押し付けになりかねないから気をつけないと。

自分に対しての「頑張る」
これって冒頭で書いたみたいに、「その頑張りのおかげで誰かが喜ぶ」みたいな頑張りの結果が見えやすい状況だったら回収された感じがあるし、自分にむけてであっても「頑張った結果で志望校に合格しました!」のような見えやすい結果だったらやりがいがある。

だけど世の中、そういった綺麗なことばっかりじゃなくて。

自分は望んでいないのに、突如降ってきた「頑張らざるを得ない状況」ってある。家庭環境とか、突如の事件事故とか、自然災害とか。

そういうのって頑張った先に何かが待っている、というよりも頑張った先で現状維持が出来ているということが多くて。そうなってくると自分の頑張りが回収された感じがしなくてモヤモヤすることがあると思う。

でも自分で回収しない限り、誰かが回収してくれるわけじゃない。

だから将来で意味づけをしていく。

「今頑張れているのは、あの時の頑張りがあったからだ」
「あの時に比べれば、これくらいは平気だ」

都合のいい解釈かもしれない。
でもその都合で振り回されるのは自分だけなんだから、自分にとってそれで都合がいいのならそれに乗っかるに越したことはない。


「頑張り」の回収サイクルは自分で回していく。
誰かが拾ってくれた場合、それはおまけだ。

自分で自分のご機嫌を、とっていかんとね。



この記事が参加している募集

今後の記事の質向上のための資金として使わせていただきます!