承認欲求について考えたこと
今日は「承認欲求」というテーマで何か書いてみようと思います。
承認欲求は2種類あります。他者承認欲求と自己承認欲求です。
簡単に言うと、他者承認欲求は「他人から認められたい」欲求です。
自己承認欲求は「自分を認めたい」欲求です。
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数年前まで、私は他者承認欲求を満たそうとして暴走していました。
「もし私が〇〇であれば、他人は私のことを認めてくれるだろう」
と常に思っていました。「英語が話せたら」「留学経験があれば(他人は私を認めてくれるだろう)」と思って留学したこともありました。
他にも「プログラミングのスキルがあれば、他人は私のことを認めてくれるだろう」と思ってプログラミングを勉強したこともありました。
留学しても、プログラミングを勉強しても、その他のことでまた他人からの承認が欲しくなっていました。「〇〇であれば、私は他人から認められる」という考えがどんどん湧いてきていました。
こういう他者承認欲求って「もっともっと!」と、無限に湧いてくる。それに、無くならない。他者承認欲求の無限ループ。
「優等生であれば(私は他人から認められる)」
「ピアノがうまく弾ければ(私は他人から認められる)」
「お金持ちであれば(私は他人から認められる)」
「自立していれば(私は他人から認められる)」
「有名な会社に入れば(私は他人から認められる)」
「立派な仕事をしていれば(私は他人から認められる)」etc...
そうやって他者承認欲求を満たそうとばかりしているうちに「自分はどうしたいのか」という視点がどんどんと抜け落ちていって、「自分の欲求」がわからなくなってしまいました。
そして、病みました。
病んで時間が経つと落ち着いてくるけど、また承認欲求を求めて行動して「自分」から遠ざかって、また病む。ということを繰り返していました。
思いっきり病んで気づいたことは、私は、本当は自分で自分を認めたかったということです。もちろん他人からも認められたら、それも嬉しい。
でも、もっと根本的なところで、私は私自身を認めてあげたかったのだと気づきました。
だから、そういう自分の欲求を満たしてあげたいなと、今実践しています。
「自分の欲求を満たすには、具体的にどうするのか?」
日常の小さなことから始めています。
部屋が寒かったら、ストーブの温度を上げるとか。
今までは「ストーブの温度をあげたら灯油代が多くかかる。私は無職なのに家族に申し訳ない」と思って、ストーブの温度を低めにしていました。寒いのに自分に我慢を強いていました。
「寒いの嫌だから、まぁ少し罪悪感感じるけど、温度上げてしまえ!えい!」
という感じで、ストーブの温度を上げる。それだけのことでも、自分を大切にすることができると学びました。
それに「それだけのこと」でさえも、自分にしてあげてなかったんだと気づきました。
自己虐待みたいですね。
他には、食べたいものを食べるとか、嫌なことは断るとか。最近知ったことでは、何かを話したい!伝えたい!というのも立派な欲求なんだと知りました。(欲求に立派もクソも良いも悪いもないけれど。)
自分の欲求にフィットできると、自分が喜びます。
変な話ですが、自分の中に小さな子どもがいて、その子が喜んでくれます。その子が、安心を感じてくれて、私も安心できます。その感覚が心地いいんですよね。自分を喜ばせてあげられたみたいで。
それに「自分の欲求を大切にできた」「自分の欲求を信じられた」ことで、自分に自信がついているような気がしています。続けようと思います。
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ここまで「自己承認欲求を満たそう!」という話を書いてきました。だからと言って「他者承認欲求」が必要ないとか、悪いとか、そうというわけではないと思います。「他者承認欲求」や「他人から認められたい気持ち」は自然なものだし、大切な欲求だと思います。他人から認められたら、素直に嬉しいです。(いいねも嬉しいし。)
でも「自己承認」していない状態で「他者承認欲求」ばかりを満たそうとすると、「他者承認欲求」の地獄のループに陥ってしまう気がします。それに「他者承認欲求」だけ求めていると「自分」が育ちません。
このループを止めて抜け出して「自分」を育てるのが「自己承認欲求」に目を向けることだと思います。
自分の欲求を受け入れて、やってみること。自分の欲求を(他人に)表現すること。欲求はもちろん、感情も身体感覚も考えも気づいて受け入れる。
今まで「自己否定」ばかりしてきたので、「自己承認」はまだ慣れない感じです。
「自己承認」する感覚が少しずつわかってきたので書いてみました。
「自己受容」に近い感覚かもしれません。
自分にできる範囲で日々やっていきたいです。
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