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知と経験の堆積と「フリーライド批判」

 どうしても言葉少なになるので短い。
 
 これは当たり前だと私は思うんだけど、権利運動は先行する運動に感化触発され、そもそもそれで自分たちも発信してよいのだと気づき泣くほど感激して、めちゃくちゃエンパワメントされ始まるものであろうと想像している。私はいわゆるLGBT系以外では部落や在日という「自分と同じに不可視的マイノリティである」人々の運動や女性運動から多く励みをいただいたし、学びも力も得てきた。だから本ひとつ作るにも、いつか後続する他の社会的マイノリティのためにもなることを祈ったし、「これは先行する社会的マイノリティの運動から脈々と受け継ぐ希望の、その長い道のりの、私たちなりの今ここまで来たよという目印なんだ。まだ途中だけど見ておいてくれ。そして君もいつか自分の道を歩き、見知らぬ後継者のために目印をつけるんだよ」と、今はまだ怖くて発信できない、それゆえ問題も可視化されていない誰かに胸の内で語りかけているような気持ちだった。コンテクストも手法も社会とリコネクトする全てのベースは、誰かから継承し誰かに譲渡し活用させる資産だ。なぜなら運動は誰か一部の人のためではなく、人類がいつか人権を獲得する長いプロセスであるからだ。私はまだ人権というものを見たことがない。まだ抑圧され権利を奪われている人がいるうちは、これまで人類が得て来たものは特権でしかないのだから、誰もまだ人権を実際に見たことがない。そうだろう? だからこの遠大なゴールを見据えた不可逆な歩みは、いつか性的少数者の運動が幸福な結末をみた後も、本当の勝利を人類が見る日に向けて続くのだ。目的はマイノリティ/被抑圧者とされる人々だけの受益ですらない。マイノリティからの発信が社会の不備や歪みについての告発/正常化である限り、例えば女性の生きづらさという発信が男性の生きづらさも照射してきたように、マジョリティが歩く道も整備するのだ。
 
 でも時折、「ただ乗りするな。私たちが開拓した道であり方法だ」と言いたくなる人たちがいる。私はそれはやめていただきたいと思う。本当に。誰のためにもならない、本当に。
 
 いまも余裕がないなら、――いいよ、自分の足元だけ見て歩いていても。それが充分に過酷で険しい道だと知ってる。でもその道は先人が通った道でもあろうし、今はあなたが踏み分けているけれども、そのおかげで後続する誰かが歩きやすくもなる。息が上がる、足は棒みたいだ、荷物の重さが肩に食い込む。いま誰かのことなんて考える余裕はないよね。手を引いてあげられなくてごめんな。でもあなたが石をどけ倒木を脇に寄せたことは、必ずや後の人のためになる。誰かがそこを通ったあなたを思い、もう少し歩こうと思い直す。まだ先に行けるんだと思える。だから「この道を行け」と道標を残して行こう。それがあなたの生きた証となる。

昨日霞ヶ関で所用を済ませ日比谷公園を少し歩いた。子どもの頃に偕楽園で梅を見たことを思い出す。千波湖が懐かしい。湖面が見たい。このまま銀座を歩こうか、昼食を済ませてそのまま電車でどこかに行ってもいい。……そう思いながらも来た道をそのまま戻った。スーパーの前で黒いレトリーバーを連れた老女と言葉を交わし、帰宅して朝食とも昼食とも夕食ともつかぬものを食べた。



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