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「バスを待つふたり」

 色々な事情で家族と感情を共有できない人たちがいる。

 この映像作品ではいつも泣くんだけど、悲しいだけかというとそうじゃない。この二人の対話には、「親子であれば」なかなか伝えきれない真情の吐露もあるからだ。例えば右の男性は、自分の娘にであれば、「君のことを家族は助けたいと思っている」と言えただろうか。左の女性もそうだ。自分の父親にであれば、病気の家族を支えながらの出産育児についての不安を素直に言えただろうか。娘の真情があり、父の真情がある。悲しみに覆われながらも、実はエゴから解放された二人の会話にもなっているという点に打たれる。もちろん、父親が子である自分を分からなくなっているのは悲しい。理解してから観直すと、息詰まるほど悲しい――しかし、老いや病、もしかしたら距離さえも、悲しみばかりではないかもしれないんだと、そう言ってみたくなる。親子の時間は続いて行くのだ。

 しかしバスが来るまでの女性の、バスが来てからの男性の演技。すげえな。心をわしづかみにされる。生きることは悲しい。生きることは悲しいだけじゃない。


 中学生の頃、施設に入った父親を休日に訪ねた。施設は柏市の十余二にあって、家からは遠かったので、ひとり電車で通った。父は私を分からなくなっていた。それでも施設の近くにあった鰻屋で父の好物だった鰻重を作ってもらい父に食べてもらうのが喜びだった。そんな父子の時間を、多くの男子中学生とその父親はもたないだろう。反発し合ったりもするものだろう。

 父には私が分からない。父の中では、息子である私は4歳のときの甘ったれ坊主のままで時間が止まっていて、目の前にいる中学生を私と認識できないようだった。父は私を、私の異母兄と考えていた。父には前妻との間に息子がいる。私の会ったことがない兄だ。病んだ父はその兄を私に見ていたのだ。私は、それを悲しいと感じたことは一度もない。言語障害のため誰にも聴き取るのが困難な発語で会えない長男に必死で語りかける父を、私は愛した。病み果ててなければ、見ることがなかったであろう「息子への思い」がそこにあった。それが父の本質だった、父親であることが。むき出しの父がそこに居た。私は父が「どのような父親であったか」知っている。

 だから、私は自分の父親を愛しているのだ。


 誰もが、私たち親子を悲惨だと考えていた。確かに父の人生は無念だったろうし、心残りばかりであったろう。さぞ悔しかったにちがいない。しかし息子の私はどうだろうか。私と父の父子関係はどうだっただろうか。私は幸福だったと感じている――もちろん複雑な思いはあるけれど、悲しみもあるけれど、父は私に父親はどうあるものか教えたと思う。それは果たした役割として他の健常な父親と変わらないのではなかったか。

 柏駅から乗り換えて十余二で電車を降りる。あの鰻屋がまだあったらいいのに。鰻重を持ち帰りで作ってもらい、あの病院にまた行けたらいいのに。父に話したい。人生が思いのほか厳しかったこと。何のために、どう生きればいいのか分からなくなって久しいこと。――私が守れなかったもの。諦めたもの。切り捨てたもの。残した僅かなもの。父に話したい。


 

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