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「ご感想への返信2023」No.03


性的少数者が医療に何を求めているのかを当事者の言葉でお伝えいただき、大変勉強になりました。「他の人々と同等の医療」は結果であって、それを実現するためにはマイノリティへの理解と生活を送る上での困難になることについて知識を持っておく必要があると思いました。患者が求めているのは、性的嗜好を「理解」することであって、「共感」することではないという言葉が印象に残っています。性的嗜好を告白しただけで「共感」されてしまうのは、彼らが苦しみを抱えているという考えが前提にあるのではないかと感じました。ただ、看護は患者への共感的理解が必要でありその重要性が教育されていることを踏まえると、患者が苦しみ、痛みを露わにしたときに共感することと、己の偏見のために誤った苦しみを想定し勝手に共感すること、その違いを理解し、患者にとっての本当の「苦しみ」「痛み」が理解できる看護師になりたいと思いました。

学生からの感想

授業で扱うのは、性的「嗜好」ではなく性的「指向」

 「性的嗜好」(sexual preference)と「性的指向」(sexual orientation)とは全くちがう概念で、授業で扱い/差別問題で扱われるのも「性的指向」です。学生の皆さんは明確に区別してください。


他の患者と同等に快適な医療

 17年の講師生活で学生がおかれた状況を観察して――主に講義中や質疑応答での反応、またこのようなリフレクションペーパーでテーマ周辺に対する学生の理解度やスタンスを見て来て、やはり知識量は増えているし、問題を身近に感じている学生が増えた印象をもっている。高校までの学習機会で「性的少数者についての学びがあった」と語る学生は増えているし、身近にカミングアウトした性的少数者がいるという学生も必ずいるようになった。その一方で、社会における「性的少数者に対する批判」にも学生は曝露するのであるから、バイアスそのものにも時代的な変化はある。社会情勢に影響を受けるものには世代的感覚があるが、自他の人生について語る言葉にはほとんど楽観や余裕がみられない。その傾向は年々強くなっている。ソーシャルメディアで「他者」との距離はより近くなった。それと同時に、社会的少数者に対する二極化した言説に無統制に曝され、被抑圧層に対する批判的言辞を持ち帰ることも多い。現代は17年前と比較しても、性的少数者にとって極めて批判的な世論が溢れる時代である。施政者が「不当な差別はいけない」など言葉を弄して「正当な差別」を発見する現代に、意識の変化は免れない。私も被抑圧者のひとりとして、また講師としてどのような発信ができるか悩むことが明らかに多くなった。防戦という意味合いでも、また学生の抵抗力を高めるにも。私自身確信できないまま暗中模索している観がある。

 そうした中で、「性的少数者の患者が医療に求めるもの」として「提示せざるを得なかった」のが「他の患者と同等に快適な医療」というスローガンだった。これは性的少数者に対する措置を「過剰な配慮」と断ずる時代感覚(その感覚の何と支配的なことか)に、「平等/Equality」<「公平/Equity」を説きつつ、調整を試みたのであった。
 しかし私の言葉は(私自身がゲイである限り)「講師としての公正性を保ち得ない」とも揶揄できるのであって、善悪が曖昧模糊とした時代に、一方のナラティブとしてしか存在し得ない。それはシス‐ヘテロ講師の言葉が公正を期するものと約束されない(と疑える)ことと相同にある。学生は疑心暗鬼の中で真実を見つけようともがくが限界はあらかじめ設定されているのであって「どちらを信じるか」という選択問題にされている。そのもどかしさとすまなさ。忸怩たる思いを抱えながら、教壇に立っている。


 だから現在の私の講師として語る言葉は、やや極端である。私は講義に(また業務に)どのように臨むことを学生に求めたか。

実際に講義で使用されたスライド①
実際に講義で使用されたスライド②

 多様な価値観がひしめく中で、学生たちはひとつの正解(真実)にたどりつくアルゴリズムを与えられない。「これこそが正解だ」とする複数の声のなかでは、講師の言葉もむしろ心に疑念をしのばせるものとして変換され、苦悩を深める要素となるだろう。そこで私に何が言えるのか、どう導けるのか、悩んだ末の言葉ではあった。それは「医療者として求められるものは何か」見つめて揺るがないことを軸として、妄言に惑わず、先入観を排し、自らの知力を信じて考え抜くこと、であったと言える。恐れるな、自分を恃み生きるしかない。そんな時代なんだ、と。

 それについての、学生からの柔らかい返信を見た。「共感を同化と見誤り」「理解を際限なき同意と誤解して」委縮するなと言う私に対して、それを受け止めつつも、あくまでも受けて来た教育の意義を忘れず、真の共感は何か原点に還ろうとしている。私の右往左往に、「大丈夫だよ」と返した。
――これは、そんな返信だった。

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