見出し画像

この季節になると、今年は異例の開花状況とはいえ、やはり桜が目につく。俵万智さんに倣うまでもなく、あらためて桜は日本人にとって特別なのだと感じる。桜が象徴するものは、時代とともに微妙な変化があるにしても、現代ではやはり、別れと区切り、そして新たな出会いと門出。そんなことを連想させるに違いない。もし日本の教育制度が、ひいては新入社員の入社時期が、春ではなく秋であったなら、桜の持つメッセージは何になっていたのだろう。

この春、卒業を迎える人も、進学や入学を迎える人も、コロナ禍よりは少し軽やかなスタートにあるならば何よりだ。梅ではなく桜、ではあるが、耐えて花咲く。まさにそんな心境ではないだろうか。新たに社会人となる若者たちもまた、清新な心持ちでこの時期を過ごしているものと思う。こちらも、耐えて花咲く、である。

学生だって、一つ前に進むのはとても大変だ。高い壁にぶつかり、あるいは艱難辛苦を乗り越えて掴み取った春もあるだろう。それにも増して、この時期毎年思い浮かべるのは、特別暑い日本の夏に、左手で汗を拭きながら右手で手帳を開き、スマホでメールをチェック。慣れないスーツに歩きにくい靴を履いて、文字通りヒートアイランドを引きずり回される就活中の若者たちの姿だ。あの若者たちは希望の会社に採用されただろうかと、何気なく行き交ってきた無数の若者たちの必死の表情が目に浮かぶ。あれぞまさに、耐えて、花咲く春を待つ夏に相違ない。

なんにせよ鮮度というものがある。鮮度と呼ぶ以上、この度合いには良いときと悪いときがある。鮮度がよいならば、それはフレッシュだ。いつから日本で使われるようになったのかはっきりと覚えていないが、フレッシャーズという言葉が定着して久しい。まさに、鮮度のピークである。そのフレッシュなピークは、就活セミナーやマナー本などを手擦れがするほど読み返し、あれがだめ、これが良くないと、嫌というほど指摘されながら磨き上げてきた、最高の「糖度」だ。

履歴書の書き方に始まり、証明写真の写り方、スーツの着こなし。書き込む内容の推敲、言葉遣い、所作、一般常識。自由な社風です、と謳っていても、自由でないのが入社試験だ。そうやって、社会人の予備軍を育成するのが、ある意味で企業の人事部やら採用担当、ということであり、そこに顕れていない可能性まで予測して、毎日個性の違う若者らを相手にする採用シーズンの労力は並大抵ではないだろう。
そうして粗削りで初心な若者たちに、社会という荒波の一端を垣間見せて応じることで洗礼を浴びせ、最高に仕上がったフレッシャーズを迎える。目の前にいるのはまさに、自ら磨き上げたマスターピースである。

それなのに、である。中堅だってベテランだって、役員だって会長だって。程度の差はあれ、みなフレッシャーズだった「瞬間」があるはずだ。しごかれ、叱られ、窘められ、そうやって耐えて社会人の仲間入りをした瞬間が。その瞬間は、間違いなく鮮度は抜群にフレッシュだったはずである。

誰にだって鮮度がある。これは、比喩的な意味においても避けられないものなのだ。しかし自分で、あるいは導き手たちの力で、鮮度のバイオリズムを少し変えることもできるのではないだろうか。あれだけの急ピッチで、社会人の模範生を育て上げることができる人たちが会社ごとにいるのだ。
もし、社会人のピークを少し、ほんの少しでもずらしてあげられたら、あの若者たちはもっとほかのことに時間を使いながら、夢に見た会社で仕事を始められるのだろうか。あるいは、ピークをずらすことで、最高ではなくとも、比較的フレッシュな期間を長くしてあげられるならば、儚い最高糖度を求めるようなことが減り、やがてフレッシュとは程遠い振る舞いに傾く先輩たちももっと減るのだろうか。

髪は清潔に。爪もきれいに整えて。スーツのシワをのばせ。ネクタイはまっすぐに。華美に過ぎぬメイクを。ドアの開け方、ノックの仕方。語尾を上げるな、正しい丁寧語を使え。靴は汚れを落として手入れしておけ…。
そう言って学生気分を叩き直し、若者たちを鼓舞してきた大人たちが、遠い「自分の鮮度」の記憶を回顧することもなく生きている。こんな状況を「生活に疲れる」という言葉で片付けてはいけない。ピークが早ければ、劣化も速い。人間の鮮度はもう少し、慎重に扱われてもいい。
桜舞うこの季節に、希望に満ちた佇まいで街ゆく若者が颯爽と通り過ぎるとき、今が鮮度のピークでなくてもいいのだ、と声をかけたいような、くだらない老婆心に襲われるときがある。(了)

Photo by Wolfgang Claussen,Pixabay


この記事が参加している募集

スキしてみて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?