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『人類多様性図鑑』

世界中が、ジェンダー平等に対してここまで急速に、少なくとも「気をつけよう」という理解に到達するまでに、大きな勇気と熾烈な闘争、そして想像を絶する数の被害者がいたことと思う。権利の闘争というものは、時代に応じて内容は違うが、登る階段はどれも高く、大きな犠牲を伴う。
それを、なんとなく理性的で寛容な、人間の進化であるかのように高踏的に推進していく社会制度というのは、それはそれで安請け合いのような匂いがしてしまう。同時に、ジェンダー平等が浸透し、当たり前となった世の中を、歴史はまだ経験していない。その時はその時で、ジェンダー不平等であった時代と同じ問題が生まれるのかもしれない。

「LGBT」や「SOGI」など、コマーシャルな要素を含むと無理気にも判断されたものは、メディアがこぞって取り上げた。あたかもジェンダー平等の旗手のように世界中が、それらが包含する、経済性に還元される要素を切り取って報じた。たとえばレズビアンやゲイなど、同質性の高いものを愛し理解するということは、実は、より大きな差異が隔てる他者理解よりも難しいのではないか、だからこそより柔軟で繊細な他社理解の可能性を有しているのではないかと、むしろ個人的には感じる。
しかし将来において、たとえばアンシャン・レジーム的な結婚と同じように、成熟すればするほどに同性婚の離婚率は上がるかもしれない。恋愛一つとっても、「3高」を望むような愚かな轍を踏む可能性もある。いま見えてきた明るい未来への兆しは、新たな挑戦者の入場曲と背中合わせだ。

人類はこうして、大きな過ちと不断の試行錯誤の中でなんとか残存し続けてきた。それが人類の素晴らしさであり、人類の人類たる所以だ、という人間中心主義がそこにあるならば、やはりどのような進歩もいつかは座礁するのだと私は思う。

どのように世の中が前に進んでも、人間中心主義を手放すことはしない。多様性を謳っても、人類はすべてを見渡す至高の目線にあって、自分たちがその多様性の審判者であるかのように振る舞い、実は多様性の中のほんの一部であることをほとんど忘れている。あらゆる言説の主語が「私たち」「世界」「社会」「ひとびと」である限り、いかなるトライも「人間の、人間による、人間のための」域を脱しない。

馬鹿げた話かもしれないが、私は「人類多様性図鑑」を、フルカラー版でも、AR機能付きでもハッピーセットのオマケでもいいのだから、どんどん作ったらいいのだと妄想する。多様性を軸に、人類を種として俯瞰する生き物図鑑だ。

私たちは、生き物や植物、乗り物の図鑑を眺めるとき、それらに政治的な優劣をつけない。確かに、好き嫌いの順位をつけることはあるだろうから、それはやがてポリティックなものへと変じる可能性はあるが、少なくとも一度、多様な情報としてそれらを認識する。どんな姿で、どんな色をし、どんな性質を持っているのか…。それを無心に眺める時、情報に対して我々はフラットだ。もしかしたら、この図鑑はまたも「人間にしか」読めないかもしれない、と気弱になっておく。しかし「人類多様性図鑑」の中に自分も含まれ、それらが恐竜図鑑の隣に並んでいたら…もっともこの図鑑を編纂するのが人間自身であるから、自ずと限界はあるのだが、人間中心主義の目を覚ます起きぬけの苦いコーヒーにはなるのではないだろうか、という想像はやはり馬鹿げているのだろうか…。(了)


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