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偏在化する音楽、バリエーションの檻

【ユビキタスミュージックとカームテクノロジー】

1. 高名で年配の科学者が可能であると言った場合、その主張はほぼ間違いない。また不可能であると言った場合には、その主張はまず間違っている。

2. 可能性の限界を測る唯一の方法は、その限界を少しだけ超越するまで挑戦することである。

3. 十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない。


SF作家アーサー・C・クラークのかの有名な"クラークの三法則"というもの。

サブスクリプションサービス登場以降、蛇口を捻れば水が出るかの如く音楽が溢れ出るアート、エンタメの民主化、偏在化、それらの"非コンシャス化"のプロセスを経た現世界は、18世紀以前の世界からすればそれはまさに魔法だ。
そして今後さらに様々な"不可能"という既成概念がジェネレーション・サイクルによって加速度的に突破されていく事も広く理解されていることだろう。

至る場所に音楽が染み出すこの環境を私は「ユビキタスミュージック」と呼ぶことにしている。

概念図式としてのこの偏在化は音楽に限った話ではない。例えば、マーク・ワイザーは19世紀後半に「カーム・テクノロジー(穏やかな技術)」という概念を提唱したが、これはデバイスがもはや人々に意識されない程テクノロジーが生活や自然に溶け込んだ環境を指し、具体的には近年のIoT等がその萌芽にあたるとされる。

プラットフォームのアルゴリズムがもたらすフィルターバブルによって島宇宙化が加速し、あらゆるコンテクストが限りなく脱中心化されていく中、膨大に数が増え際限なく多様化していく音楽。しかし、少しマクロな視座を据えると、およそ2つの源流を見出す事ができると私は感じている。

・アーサー・C・クラーク

・ユビキタス

・島宇宙化



【音楽史のキュレーション、音楽史のイノベーション】


"ジャンルが飽和した状態" "フロンティアの行き詰まり" これらは、ものを創るのにも享受するのにもかかるコストが限りなく下げられたがゆえ、カンブリア爆発のように作品が溢れかえるこの状況では避けられない問題だ。
それらを解消するための方向性は大きく分けて2つあると私は感じている。


Ⅰ.スタンダードな解決先"音楽史のキュレーション"

独自の感性に基づいてカテゴリーないしジャンルをクロスオーバーし、それらのセグメント分けされたエッセンスをまとめあげることで"ジャンルの飽和"を解消するというクリエイションパターンだ。

端的に言えば、あらゆるジャンルの"いいとこ取り"をして独自の解釈を付与させた結果として新しいものを生み出すという方法論である。

また、サンプリングといった手法は今やHIPHOPのフレームから染み出しあらゆるフォーマットで使われるようにもなってきたが、このサンプリングという手法もある種キュレーション的な側面が現れている一面と解釈できる。

ユビキタスミュージックの時代においては、"アーカイブオタク"になるのにかかるコストも今までに無いほど低い。
それゆえ音楽史全体をジャンルレスに俯瞰するアティチュードを身につけやすいため、この"キュレーション"的な流れはある種必然性を帯びていて、最もスタンダードかつストロングスタイルな方向性であると言えるだろう。

しかし少々冷めた事を言えば、キュレーション的なプロセスによるクリエイションはむしろAIに分があるという点だ。
AIアートのクオリティの進化はめざましく、今日では人が作ったものとの区別がつかない。
今後さらに、その作品が人によって作られたものなのか、AIによって作られたものなのかが意識されなくなっていく事を鑑みると、この方向性はストロングスタイルではあるが、それなりの弱点も含んでいることは無視できない。


Ⅱ.トリッキーでアカデミックな解決先"音楽史のイノベーション"

音楽というメディアそのものへの問い掛けや挑発を主とした「コンテクストゲーム」とも言えるこのクリエイションパターンは、例えばジョン・ケージの『4分33秒』を筆頭にした"偶然性"をふんだんに取り込んだもの、また脱作曲的な態度をコンセプトとするものから、「トータルセリエリズム(総音列主義)」など、逆に"徹底的に管理された"というものをコンセプトにしたものまで幅広く挙げることができるが、それら全てに共通するのはやはり、「プロセスや枠組みそのもののイノベーション」を志向している点であろう。

この流れの中にはメディアアートと融合した試みも含まれてくるが、個人的にすごく心を打たれたものとして、東京大学先端科学技術研究センター特任教授でメディアアーティストの岩井俊雄と作曲家の坂本龍一の共演によるライブ『MPI X IPM』を紹介したい。

これは97年のライブだが、視覚的な情報と聴覚的な情報が交差するアート体験を空間全体を通して突きつけてくるような臨場感と躍動感は、当時より十全にテックが発達した今見ても凄まじい感動がある。

このような機械学習によって再現できない斬新なアイデア、イノベーションはAIには不可能である。
難易度が高い上、マジョリティに浸透する確率が低いというデメリットがある分、人間にしか出来ないという優位性がある。
先程挙げたキュレーションとは対極に位置するような方向性だ。

アーカイブオタク…… 特定のカルチャーに関して凄まじい知識を有する人。サブスク文化の影響として今後増加することが予想される。
コンテクストゲーム…… 歴史的な文脈を前提とした革新、反抗、を軸にクリエイションをすること。マルセル・デュシャンの『泉』等が代表的な例。

・ジョン・ケージ『4分33秒』

・トータルセリエリズム



【脱中心的な世界で自然形成される中心的な文脈】


多様化していく時代にあっては、あらゆる領域で脱中心化が起こり共通のコンテクストが失われつつあると述べたが、逆に言えば"共通のコンテクストがない"という共通コンテクストが成り立つという否定神学的な論理が現れてくる。

その中で選択しうる方向性には、(どこに線引きをするかでまた見方は変わるかもしれないが)上記で示した2つの方向性が浮上してくる。

少々穿ってはいるが、この事から読み取れるのはやはり"置かれた状況に対してとれる態度のバリエーションのパターンには原理的限界がある"という事だ。

これは人格特性についても同じことが言える、というより人格特性がそもそもバリエーションに限界があるという性質を持つがゆえに、それを軸に駆動されるアートや音楽もその特性に従わざるを得ないと言った方が正しい。
限られた時代・条件(コンテクスト)においては、限られたバリエーションの人格・アート・倫理しか存在しえない。
これを〈バリエーションの檻〉と名付けたい。

しかし、冒頭で引用したクラークの三法則の2項目、〈可能性の限界を測る唯一の方法は、その限界を少しだけ超越するまで挑戦することである。〉に立ち返る。

バリエーションの檻という限界から少しだけはみ出したキャラクターが、限界を少しだけ超越するアイデアで予期せぬ乱数を生成してくれたら面白い。

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