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Digital Attention、新時代的生態系への愛慕、ウタの歌。

端的に言って、ADHDなのである。

そうとは知らずに実社会にアダプト出来ず秘かな呻きを湛える、あるいは、症例が自身に何となく当てはまるという理由でそれを自称する、といったビッグスケールでもスモールスケールでもない。

診断書付きのポジティブADHDを暫定的に自称しておこう。

ゆえに投稿が半年近く滞った。

「だからどうした」「お前みたいな一般庶民の弱小アカウントが滞ろうと経済は回るのだ」「そもそも待ってない」「てか誰?」

ごもっとも。
別に私としても何の使命感があってこのnoteというプラットフォームで発信してるわけでもなければ、そもそも投稿数自体少ないライトユーザー。
ただ暇つぶし程度に日々の思考や妄想の排泄行為を担う趣味垢ですの。

それでも気まぐれに垂れ流したクソにいいねをしてくれる顔のないユーザーが数十人いて、それを数字で示されるとついつい脳がドーパミンをこぼして、皆アテンションの奴隷と化してしまうのだから、SNSという女王様は優れた調教師ですわねほんと。

質量のない"Good"に尾を振るパブロフの犬は、結果的に大衆消費を促進する無料広告にもなりうるわけで、それと同時に、全てが評価経済のゲームのフレームに組み込まれていくことのメルクマールだとも考えられる。

デジタル断食によってウェルビーイングの度合いが格段に改善されるといったデータや研究はもはやレイト・マジョリティにも浸透していて、アンデシュ・ハンセンの著書『スマホ脳』は爆発的な発行部数を誇り、書店に入れば必ず目にする世の中になって久しい今日この頃、依然として最低でも1日1回はInstagramを開いてLife goes onですの。

だが「ダイエットを頑張る」のではなく、健康的な生活を自然と営んでいる結果「知らず知らずのうちにダイエットになっていた」というのが理想なように、デジタルが汎神化した世界におけるオーソドックスな、新時代的な生態系であり、もはや不健康は不健康ではないのである、と超然として認識をアッサリ移行してしまう方が遥かに健康的で、再現性が高い。

画一的な生活態度を強いる旧来の学校化や規則はメタバース時代の多様性重視の価値観と正面衝突して近々火花を散らすはずだと、現代人の直感的未来予想図は踊る。されど進まず。な黎明期の日本を生活圏としていれば、些細なインシデントにさえ辟易してしまうのも無理はない。

しかし時間という変数は不可逆的なものというのが現時点の限界だ。つまりテクノロジカルな変容は否応なしに自然と溶け合い、意識的、下意識、無意識のあらゆる層の形状変化を強いる。遅くとも必ず。

産業主義的制度への帰属を念頭に置いた画一化を孕んだ学校教育を私もなんとか耐え忍んで今に至るが、それもブロックチェーンさながらの脱中心的なコンヴィヴィアルな世界観に代替されるのであれば、、と想像上の不確定な未来像に住まう子供達に早くもジェラってしまう。。

ONEPIECE FILM RED 
ウタという象徴

『新時代はこの未来だ、世界中全部変えてしまえば』という気概で『この世とメタモルフォーゼ』することでしか少なくとも楽観的に生きることはないという、事実上強圧的リベラリズムに晒されているのだから、ウタの気持ちはよくわかる、うむ。恐らく違うが。

ウタは市場原理を徹底的に排した、究極の共産主義的に設計されたメタバースで皆と永遠にユートピアを生きるビジョンを描くプラットフォーマー。その世界ではゼレンスキーもゆったりとコーヒーを嗜んでいることだろう。
しかしそれはもはやユートピアではないという、ノージックの思考実験的な哲学がそこにはある。

事実上それに近いデジタル世紀をニンジンの如く目前にぶら下げられた我々は何を感じ、何を考え、何を恐れ、何を仰げばよいか。

デジタル社会全体それ自体をアートと捉える感性、そして新時代的なコンテンツやオブジェクトを愛でる感受性ないしアーリーアダプター的なマインドが俗人にも求められているのであろう。。
それがこの黎明期におけるある種のメンタルマネジメントなのだと。。

『"死ぬ"って何!? 大切なのは身体より“心”じゃないの!?』
『“新時代”は、みんな一緒に“心”で生き続けるものなんだよ!』

-ウタ-

ONEPIECE FILM RED面白かったです。

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