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努力しなければ手に入らない肉体と、それを努力してまで得ようとする理由


筋トレやってると、よく「何を目指してるんですか?」とか「何になりたいんですか?」と聞かれることが多い。そのたびに言うのはただ

自分の必要とする肉体が欲しい

ということなんだけど、これをなかなか理解してもらえない。ヨガとかマラソンならこんなこと言われないのに、筋トレしてるだけで「そんな無駄な筋肉身につけるために労力払うキチガイ」というような認識をされてしまう。
当然と言えば当然なんだが、それなら空手はどうだ。柔術はどうだ。あれやってる人らは効率の良い人殺しの手段を学んでいるわけで、危ない度合いは筋トレの比にならないはずだ。
格闘技という、人を壊す技術を学ぶ方が印象が良くて、ただ人間のフィジカルを上げることを追求する筋トレのイメージが悪いことは何に原因があるのだろう。
役に立っているかどうか、という意味では、格闘技は役に立ってしまってはいけないようなジャンルだし、ヨガとかも本来はバラモン教とかの修行の一貫で、その本質からかけ離れて身体のみ修練しているだけのものだ。
ヨガや格闘技を馬鹿にしたいわけではない。けれど、身体を磨くこと。どういう風に自分の身体を操作したいか。その目的と方法の問題で、身体を鍛えることにとやかく言われる筋合いはないはずだ。

先日、ムキムキになる必要はない論者から手厳しい言葉を頂いた。曰く。

私の行く病院は若い人多いけどムキムキのリハビリスタッフはいないよ。

それってどういう意味なんだろうか。中高年が必死で頑張ってリハビリという肉体労働をすることがおかしい、ということだろうか。
筋トレしてまでやるような商売じゃない、ということだろうか。残念ながら、リハビリや介護は、自分の身体を犠牲にしながら続けていくしかないのが現状だし、機械化できない商売でもある。
若い人間ばかり、というのは、壊れたら使い捨てという事実の反証に他ならない。年取っても続けていくには、強靭な肉体が必要なのだ。
この間、後輩から「腰痛ってのはリハビリから避けられないものですか?」と問われて、即座に「無理」と答えた。どんなに気をつけていても、事故が起きるのと一緒で、備えていても、リハビリという、他人の身体を支える仕事をする以上、腰は痛めてしまう場面がある。
ロニー・コールマンというボディービルダーは、今、脊柱管がボロボロになり、両手に杖を持ってしか歩けない。しかし、ロニーは「俺のやってきた仕事はそういう対価で成り立っている」と割り切っている。
リハビリもそういうものだ。誰かを救うために犠牲になる。そんなこと百も承知で、いつか身体を壊すことなんかわかっている。
だから、その時期を少しでも遠くに伸ばしたい。そのために筋トレをする。それだけなのに、不自然だの何だのと言われる。
不自然がそんなに悪いのか?医療とは、そもそも自然死していた生命を不自然な方法で長生きさせるものではないのか?

リハビリテーションという言葉の意味をみなさん知っていますか?
再び元の状態にする。そういう意味です。完全に元通りにはならない。けれども、元通りを目指す。俺はそういう仕事をしています。

そのために、自分で起き上がれない人を起こし、車椅子に座らせ、立ち上がらせ、歩かせる。誰を?患者さんです。一人でそのことを出来ない患者さんを起こし、座らせ、立たせて歩かせています。
肉体労働です。重労働です。ヤワな身体では持ちません。だから、周りは若い人間が多いです。けれど、一番労力のかかる人間は今年48歳になる俺にまわってきます。なぜなら、俺が一番技術と体力があるからです。
技術うんぬんもありますが、最後は力がものを言う場面があるんです。技術と肉体。どちらかに片寄ることは危険で、両方ないとやっていけないわけですよ。
俺の仕事はPTつまりphisical therapistなんです。フィジカル、つまり肉体を扱うセラピストなんです。運動器、脳外科、呼吸器、廃用、内科、外科、全ての肉体に対応しなければいけないんです。

患者の体重重くて腰が痛くなるから嫌だ。そういうセラピストはたくさんいます。俺だってそうだよ。楽な仕事したいよ。けど、みんな嫌がるようなことやるために身体鍛えてんだよ。
そのために身体を鍛えて何が悪いんだ。人を救えるだけの肉体を持つことがそんなに悪いのか?それでも、力足らずで悔しいと思うことの方が多いのに、なんでそんなこといわれなければいけないのか。

俺が後輩にいつも言ってるのが、「腰痛は技術と体力の両方で対応するしかない」ということです。片方だけで解決できないのだ。体力に合った方法を選択する必要があるけど、人手不足の医療業界はそれを許さない場面がある。
こうした無理の積み重ねが、リハビリ及び看護師の腰痛を生むのだが、その根本的解決は人不足の解消でしかない。もしくは機材の充実か。
この業界は人を消耗品として扱う。だからこそ、冒頭の話にある「私の行く病院は若いリハビリスタッフばかりだ」という現実がのしかかる。
俺たち老兵は現場から切り捨てられていく。しかしな。その若い者たちがどんな学問を受けているのかはあえて言わない。今のアカハラだのパワハラだので、物凄いことになってるから。

無理しない無理させない。“楽”というやつだよ。負荷のないところに成長はないはずが、その負荷のないまま現場に出て負荷を受けずに患者さんに対応して、自然治癒でどうにかなってるようなリハビリをして「私の成果です」なんて胸張ってるような姿を見ているわけですよ。そんで、キツい仕事は「出来ません」とか言うから、俺らジジイが100キロ超えとかの患者を相手にヒーヒー言ってるわけ。
若い人に、身体をはって仕事をするジジイの姿を見せてるんだけど、伝わらない。だからこそ、そんな身体を張らない若者ばかりの現場を見てリハビリとはそういうものだ、と勘違いする人も多いよね。土方です。本質は。それをキレイな若手を見てごまかされてるだけ。
結論を言うと、今年48歳のジジイが身体を鍛える理由は、若手が頑張ってくれないからジジイが身体を張るしかなくて、そのために身体を鍛えている、という一点だけです。

この写真は、ベルタ・ボバースによる「片麻痺の治療と評価」という五十年以上前の本の麻痺による亜脱臼を防ぐための方法を紹介しています。しかし、今はこうした方法は商品化されており、その商品のサイズに合わない人は逆にほっぽらかしになっています。タイトルの背後にある写真は、それを放置して平気でいる後輩たちが許せなくて、俺がこの五十年前の技術で患者さんの亜脱臼防止の処置をした画像です。ルーティーンではないけど、流れで仕事をして患者の本質を見てないセラピストが増えました。問題点が道具にあるなら、その道具を作る、という発想がない。過去の先人に学ぶ心すらなければ、せめて筋トレくらいして欲しいです。


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