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ジャガイモが語ってくれたこと

農業を始める前の自分にとっては、日本の6月と言えば、「梅雨」と「紫陽花」。教えていた学校によっては運動会の時期でもあった。一方、アメリカでは6月と言えば、卒業式と結婚式。「ジューン・ブライド」(6月の花嫁)というにはたくさんの理由があるけど、一つはアメリカでは6月は天気が良いからだ。国が異なると連想するものが変わるのと同様に、職業によっても月のイメージが変わって来ることに気付いた。今は自分にとって6月と言えば、ジャガイモの収穫。(麦の収穫でもあるが、今年は間に合わなかったので、また来年)。3月、農業を始めて間もない時にジャガイモを植えたが、6月まで収穫できないのがとても長く感じた。ところが、気が付けば6月になっていた。梅雨の中、雨のない日を待つのが大変だったが、ようやく晴れの日に恵まれ、青空の下で旦那と一緒にジャガイモの収穫を無事に終えた。日差しはジャガイモを乾かすのに不可欠だが、私の顔と腕もこんがり焼けちゃった!

3月に約13kgのジャガイモを植えて、収穫して食べられそうなのは約110kg。初挑戦で通常の8倍を獲れたのは正直ちょっとびっくり!特に今回はペーパーマルチをしただけでほとんど手をかけずに育てたので、手間をかけなかった割には良い出来だったのではないかと感謝の気持ちでいっぱい。もちろん、野菜は量だけではなく、質も大事だ。残念ながら、土の中で既に腐ってしまったジャガイモもたくさんあった。白い泡を吹いていたり、触った途端にグチュと潰れたり、とにかく臭いがすごかった。また、日光を浴びて表面が緑に変色してしまって、毒で食べられない物もある。そういった問題を解決するためにはどうしたら良いか旦那との反省会も必要だ。ただ失敗作よりは、獲れたジャガイモの大きさや形の方が印象的で興味深かった。

スーパーで見るジャガイモは大体小がなく、中ぐらいが袋詰めされていて、大が1個単位で売られている。ちなみに、アメリカでは大が袋詰めされていて、小どころか中サイズもあんまり売られていない。ジャガイモ1個を買うという概念はおそらくないと思う。ところが、うちのジャガイモはミニトマトのサイズからマンゴーぐらいの大きさまである。重さで言えば、小さくて1個4グラム、大きくて1個辺り280グラム。さすが、自然の多様性。形は典型的な「ザ・ジャガイモ」の物もあれば、ハートやお尻の形や鼻が付いているように見えるのもある。これらを発見するのもまた面白い。ジャガイモを全部床に広げた時にもし全てが同じ大きさと形だったらなんてつまらないだろう。

自然にはこれほどのバラエティーがあるのだから、人間もそうであるのは当たり前ではないか。なぜ私たちは無理に揃えようとしたり、合わせようとしたりするのだろう。ジャガイモはどの大きさが理想かと聞かれたら、それは何に使いたいかによる。煮っ転がしみたいにそのまま食べるなら小さいのをいっぱい欲しいし、アメリカ風のベイクド・ポテトなら大きいのを人数分欲しい。料理で変わるだけで、どのサイズも良いし、どれも食べられる。人だって「大きさ」や「形」は人それぞれだけど、中身が腐っていたり、毒を放っていたりしていなければ大丈夫だ。それぞれの特徴によってできることや得意分野は違うけど、だからこそ色んな働きがある。それで良いのだ。

農業を始めた時に応援してくれた人や羨ましいと思っていた人もいたけど、「本当に大丈夫?」「大変じゃないの」と心配してくれた人の方が多かったかもしれない。私たちは農業ができることを特権に感じるが、他の人からしたら「絶対やりたくない仕事」の一つに入るみたい。やっぱり私たちは変わっているのかな。最初はそう思ったけれど、変わっているのではなくて、ただ異なっているのだと気づいた。異なった仕事をしてくれる人がいるからこそ社会が成り立つのだ。みんなが農家になる必要はないけれど、農家になる人も必要。個人的には食物作りに関わることができるのは大きな喜びである。それは、食べることが生きる上で基本の基本だから。でも、目の前で広がるジャガイモを眺めながら、教師や医者、運転手、美容師、音楽家の必要性も感じる。人間を異なった大きさや形に、異なった働きのために、造ってくださった神様に感謝。多様性は面白いもの。


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