4/28「玉・鏡・剣。三種の神器について。」
最近これらの概念について、よく考える。「三種の神器」の歴史などはよく知らないが、この三つの物に象徴される、概念的なものが、なんだか普遍的で、大事なことのように、今は感じている。その「感じ」をなんとか言語化していきたい。
俺はこれらの物を、今はこう捉えている。
玉ーフロー
鏡ー対話
剣ー力
これらについて一つずつ解説していきたい。
玉は、フローのことである。勾玉のオタマジャクシのような形を見ていると、それは動きのあるものの様に見える。
フローとは、今この瞬間を生きることである。今この瞬間に、深く没頭することである。未来への不安や、過去への後悔が、視界から外れて、見えなくなっていくほどに、フローは高まっていると言える。
この値を高めていくことこそが、あらゆる強さと呼ばれるものの源流だと思っている。個人の土壌の違いによって、その方向性はそれぞれ違ってくるが、この「フローを高める」ということに集約されない「強さ」はないんじゃないだろうか、と思う。
それは目的であり、手段でもある。フローが高まると、気持ちいい。フローが高まると、よりフローを高められる資源が寄ってくる。フローは螺旋の出発点であり、北極星でもある。
フロー高めるためには、自分と向き合う必要がある。そのための概念が、「鏡」だ。鏡とは、「誠実に対話できる対象」のことである。それは人であったり、文学であったり、自然であったり、芸術であったりする。
何かを鏡にするためには、まず「自分は鏡を必要としている」ということを認める必要がある。このことを、お互いに認めている人間同士が向き合うことで、それは対話になっていく。
より多くの対象を、鏡にできる様になるほど、それは自分を見つめることになる。結果として、自分のことが、よくわかる様になる。自分のことがわからないのは、鏡が足らないからである。
鏡を見つめることで、自分のことがよくわかると、自分にとって必要なもの・不必要なものの分別が、より精密にできる様にもなってくる。必要なものは大事にして、不必要なものは捨てていく。これが、最後の「剣」の概念に繋がっていく。
「剣」とは、力のことである。そして、力とは、「武器の濃度」のことである。
力は量より濃度である。それは、得よう得よう、とする程に何故だかこの手に収まらない、シャボン玉の様に不思議な性質を持っているものである。
鏡を見つめるほど、自分のことがよくわかり、そしてより多くのものが捨てられる様になっていく。新陳代謝が高まり、健全な、あるべき姿を取り戻していく。すると話は回帰し、フローが更に、高まっていく。好循環である。
力が高まれば、フローを高めるための資源が手に入りやすくなる。例えば、「金」である。資源を利用して、よりフローを高め、鏡にできる対象を増やし、力を高めていく。
この循環を、どれだけ上手くなぞれるか。このスパンを、どれだけ円滑に、速く回せるか。ここに集約されない、「強さ」は、やはりないのではないだろうか。これは、普遍的で、不変的で、本質的なことである。
詳しく知らないが、この三種の神器というのは、古代に生まれたものらしい。そんな昔から、現在に至るまで伝わっている概念というのには、何か神秘的で偉大なパワーも感じる。
フローが出発点と書いたが、この三つの概念には、順番などなく、事情に応じて自分なりに取り組めばよいのかもしれない。
【問いで遊ぶ】
・あらゆる「善」ぽい概念は、見方を変えれば「統一」に集約されないか?
・「共通の話題」を獲得する戦略として、統計を用いるのは効果的か?
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