日本史・世界史の教科書を読んで

大学生になり、プロ奢のnoteを読んで高校社会の勉強をし始めた時から、かれこれ1年半ぐらいになるだろうか。途中やめていた時期もあったが、最近また再開した。

高校社会の教科書は、中学までの教科書と違ってサイズも少し小さくなり、文字も小さくなり、分厚くなって、本格的だ。知識ではなくものとして厳かさのようなものを感じて惹かれる。

内容も一気に詳細に、難しくなる。アウトプットも知識を定着させるために大事だと思いまず、最初は一問一答のアプリを使っていたが、あまり網羅性がなかったので公式の一問一答の問題集を買い、最初は赤シートで隠しながら読んでいたが、途中から答えをノートに書き写し始めた。

それも初めのうちは間違った所にチェックをつけ、チェックのついているところだけを最初からまた解き直し、というのを繰り返していたが、面倒くさいので途中から一回きりにした。そういえばこの勉強法は高校受験の時から実践していた。実際偏差値の高い高校に合格したので、結構効果はあるのかもしれない。東大王でも同じような勉強法が東大生に紹介されていた記憶がある。

ただ、最近別のプロ奢のnoteで「捨てる力」というものについて読み、自分なりに考えているので、勉強法もこれを基にしてまた変わっていくかもしれない。それもまた楽しみなことだ。

そろそろ内容について書いていかないといけない。書いていて確認させられることだが、まだまるで内容が頭に入っていない気もする。まあいいか。プロ奢も、頭に入れた知識を腹に落とし、また新しい知識を入れ、ということの繰り返しこそ学習だ、ということを言っていた。

日本史を読んでいて思うことだが、鎖国が解けたあたりから一気に色々変わっていった感がある。社会の変化のスピードも、文化も、それ以前とはまるで変わってしまったような感じがする。呂布カルマの歌詞で、「右に左に揺れる近代史」というのがあった。近代以降の動揺は現代まで引き続いているのかもしれない。

社会を学ぶとはどういうことか、ということについて、「歴史の偉大さと広大さを知り、信仰としての構造を獲得すること」ということを念頭に置いている。まだよく意味がわかっていないが、これについての自分なりの意味づけを更新していくということが、勉強においての進歩なのかもしれないとも思う。

プラトンの「国家」という本を読んでいて思ったことだが、何千年もまえの人間というと、なんとなく現代人よりも知恵が遅れていてつまらないイメージがあるのだが、本の中で登場する当時の人物像は、現代の感覚からしても実にちゃんとした考えを持っていて、いきいきと生きているようにも思える。

そのような人間達が、何百年も、何千年も生きてきて、文明を更新し続けてきた、ということを考えると、「歴史の偉大さ」ということについては少しピンとくるところがあるかもしれない。

また別のプロ奢のnoteの話になるが、「運気」というものについても最近考えている。例えば、土地の持つ金運とは「1時間あたりにその土地を通る金を余らせた人の量」のようなことになるらしい。

今まで俺は勉強の目的について、「修行能力の向上」であると考えてきたが、勉強できる人は学歴がある人が多くて、学歴がある人は所得が多かったり賢かったりして余裕がある人が多いので、教育課程を履修するということは、運気を上げるという側面もあるかもしれない、と今日思った。特に、「信仰としての構造を獲得する」なんていうのは、教養人達と同じ物語を共有できるというようなもので、結構運気の上昇も期待できるのではあるまいか。

世界史については、日本史以上に理解が浅い気がする。日本史は中学時代にある程度学んだからだろうか。だから、「歴史の広大さを知る」ということについてもどういうことなのかいまいちピンときていない。

性格分析などのツールに使われるエニアグラムに、統合と分裂という概念があった。平たく言えば、統合に向かっている時に人は成長し、分裂に向かっている時に人は退化していく、みたいなことだと理解している。この概念は、国家に対しても適応できるような気がする。「7つの習慣」にも、共同体の統合と分裂は、その共同体の人々がどれだけ原則を理解し実践しているかにかかっている、というようなことが書かれていた。

教科書の記述は主に国のトップや実力者がどのような動きをしたか、ということに焦点が当てられているので、もっと民衆の生活や考えていたことが知りたいとも思う。そのようなことは、社会科の趣旨からは外れるのだろうか。あるいは、そのようなことが国の情勢に影響を与えるので、まずはそちらを学ぶ方が効果的である、ということだろうか。

組織も国も結局人間が構成しているものなんだよな、ということも、歴史を学んでいると感じる。結局学校のクラスで起こるような出来事が、組織間や国家間でも繰り広げられているのかもしれない。そして、クラスや友達との間での出来事のように歴史を捉えることができるようになれば、もっと歴史を楽しめるかもしれないし、逆に身近な出来事に歴史で学んだことを活かせるようになるかもしれない。これも、「捨てる力」だろうか。

日本史の中で印象的だったのは、日本人が食糧に困らなくなったのは、日本史の中でだいぶ最近だということだ。何百万年も前から人類は生きてきて、有史以来かなりのスピードで文明は進歩してきたはずなのに、今日のご飯の心配を大衆がしなくてよくなったのはせいぜいここ100年ぐらいである、ということは驚くべきことではないだろうか。これも、「歴史の偉大さ」につながるかもしれない。


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