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たしかに、あれは「愛」だった。

何気ない日常が幸せだった。朝目が覚めて君が隣にいる。「あと5分だけ寝たい」と言って、あと5分をなんども先延ばししてしまう。寝ぼけ眼をこすりながら、僕が用意した朝食に飛びついては、「たかし君は本当に天才ですな」とさも満足げに、そして、とびきりの笑顔で言う君が好きだった。

あのとき彼女と過ごした時間には、たしかに「愛」はあった。ご飯を1人で食べるよりも、君と食べている方が格段に幸せだったし、同じ時間を共有できているだけで幸せを感じる。そんな何気ない日常がずっと続けばいいと、なんとなくだけれど、ずっとそんなことを考えていた。

彼女はよく笑う女性だった。一緒にいるときは、ずっと笑っていたような気がする。バラエティを見ているときなんて、「そんなことで笑えるの」と疑問になるくだらない話でも、手を叩いて、ゲラゲラ笑っている。幸せのハードルが低いのであろう。それに比べじぶんは、いつも斜に構えてしまって、幸せを素直に幸せだと認めることができない。

彼女のようによく笑う人間になりたい。そう思えば思うほど惨めになっていくばかりだ。彼女という太陽は圧倒的影である存在の僕にとって眩しすぎた。だから、僕は彼女を手放してしまった。正確に言うと、君が僕に愛想を尽かしたのだけれど、手放してしまったのは紛れもなく事実だ。

友人の紹介で出会った2人。はじめましてに緊張してしまったのか、2人とも人見知りを発揮し、お互いをほとんど知ることなく、最初のデートは終わってしまった。わかったことといえば、一緒の職種で働いていること。香恋という名前が。よく似合う女の子とだということだけだった。

一目惚れも同然だった。凛とした佇まい。ルックスはもちろん、長い黒髪がよく似合い、ふと上がる口角は僕をその気にさせるには十分すぎた。

彼女にもう1度会いたい。

彼女に一目惚れをしてしまった僕は、また彼女と会いたくなって、LINEで食事に誘った。既読がすぐに付いて「ぜひ行きましょう」と返事が来たときは、柄にもなく家の中でガッツポーズをしてしまった。性格は温厚。ガッツポーズなんて、高校時代の部活動で、県大会に優勝したとき以来だ。

数回のデートを繰り返し、僕から彼女に告白をして、2人は晴れて恋人へと昇格した。念願が叶った僕は、毎日をとても丁寧に過ごすようになるのだ。夜型人間から朝型人間に変わり、仕事の業績もうなぎ登り。彼女は俗に言うあげまん女子だ。

香恋に僕とお付き合いをした理由を後日尋ねると、「私の目をずっと見てくれていたから、たかし君なら信用できる」と返事が返ってきた。昔から人と話すときは目を見て話しなさいと親によく言われていたから、意識的に目を見て話す習性が備わっていた。そいつが功を奏したのか。親には感謝をしなくちゃならないと、心からそう思った。

何気ないデート。何気ない会話。何気ない数々の出来事がただただ幸せだった。交際は順調に続き、ついには同棲をすることになった。これがまさか終焉のカウントダウンのはじまりだとは、当時はまさか微塵も思っていなかっただろう。

一緒にいる時間が増えれば、相手のいいところも嫌なところも、嫌でも目についてしまう。いいところだけ見てくれればいいのに、嫌なところの方が記憶に鮮明に焼き付いてしまうのが厄介だ。とはいえ、僕が悪いところ以上にいいところの数を増やせばよかったんだけれど、現実はそんなに甘かない。

同棲生活は最初は順調だった。同じ職種で働いていることもあって、家でも仕事の話をしてしまう。彼女は前向きに頑張ろうとしているが、僕はどうしてもネガティブに捉えてしまう。ポジティブになりたいと思えば思うほど、どんどん遠ざかっていく。そして、卑屈になって、相手にも悪い影響を与える始末。

彼女の前向きな姿勢もまた羨ましかった。彼女は僕が欲しいものばかり持っている。それがまたネガティブを加速させる要因になったのだ。最初は少しずつポジティブになればいいと言ってくれていた彼女だけれど、段々魔が差してきたのだろう。うまくいかない現状に不満をぶつけるようになってしまった。

「どうしてそんなネガティブに考えるかな。前向きの方が絶対いいよ」

香恋の発言が胸に刺さる。ポジティブになりたいのは山々だけれど、最悪のケースばかり頭に浮かんでしまう。これは性格なのだから仕方ない。本人の意向を無視した置いてけぼりのポジティブはネガティブをさらに加速させる。

僕と一緒にいるときに、彼女は笑わなくなった。それどころか2人の間には沈黙ばかりが流れ、会話をする機会もほとんどなくなった。もうこれは時間の問題だなと思っていたら、やはり彼女から別れを申し出てきた。

僕は彼女の申し出をあっさりと受け入れ、彼女はホッとした顔をする。これでネガティブから解放されるね。申し訳ないとは思っているけれど、彼女は僕には眩しすぎた。

彼女が家を去り、1年がたった。彼女が家を出る前に、置いていった手紙はまだ付箋がついたまま。この手紙を読めば、もう会えなくなる。そう考えると、手を付けられない。大切なひとを失ってわかったことは、彼女は最後まで僕を愛していたということだ。そして、いまだに彼女を忘れられない1人の男がいる。

今思い返すと、彼女は僕をずっと励ましてくれていた。じぶんが仕事でどれだけ辛かろうと、僕を最優先して、僕の幸せを願い続けた。

香恋は僕に人生を楽しんで欲しかった。一緒に過ごす人には前向きに生きて欲しい。好きな人に抱く感情としては当たり前のことだ。でも、僕はじぶんにはないものを持つ彼女をずっと羨んでばかりいた。彼女のようになれたらなんてことばかりを考え、近づく努力は何もしない。

ネガティブが加速するだけ加速して、彼女の好意を無視した結果がこのザマだ。彼女が僕にしてくれていたことは紛れもなく「愛」だった。そして、その愛の偉大さに、僕は1年越しに気づいた。

君が僕の嫌いになる方法を知ったときに、同じように僕にも君の嫌いになり方を教えてほしかった。君が勝手にいなくなり、行き場を失った思いはいまだに宙づりにされたままだ。

またネガティブに戻りそうになった。僕を励ましてくれる彼女はもういない。だからじぶんの足でちゃんと前に進まなきゃ。きっと大丈夫、僕には香恋から教えてもらった大事なことが胸にまだ残っている。

またどこかで偶然お会いしたときに、「ありがとう」とちゃんと言えるよういまは前だけ向いて歩こう。

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