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安心感がある大阪、主体性が問われる東京

大阪に住んでいたときに、自己紹介をすると決まって「ライターさんと初めてお会いしました」と言われていた。大阪にもライターさんはいるのだが、リアルで対面する機会が減ったからか、物珍しい目をして見られることが多い。

「どんな文章を書いているんですか?」
「ライターって大変なんでしょ」
「ライターってしんどそう」

話を進めていくうちに「あ、これは僕という人間を見られていない」と思う機会が多かった。肩書きはあくまで肩書きで、僕の一部分を占めるものに過ぎない。心をうまくコントロールしなければ、自分が高尚な人間のように思えてくる。そこに違和感があった。自分を戒めるために、上京という道を選んだ。

肩書きではなく、自分という人間をきちんと見てほしいと願うのはエゴなのだろうか。肩書きばかりが先行して、パーソナルな部分は誰も見ない。そんな状況に仕方ないと諦めの気持ちがありながらも、しっくりこない感情が芽生えていた。

ライターの数が少ない大阪と違って、東京はライターさんと出会う機会が多い。フリーランスという言葉は聞き慣れたし、だから何?という顔をされる。何を書いたかはもちろん大切なのだが、それ以上に一人の人間として見てもらえる機会が増えた。

以前、飲み会で大阪から上京した人が「大阪はよそ者文化を好かない傾向が強い」とおっしゃっていた。その通りだと思った。何か新しいものを目にした瞬間に見せるあの奇妙な目は畏怖すらも感じる。大阪には自分の街が好きと豪語する人が多い。もちろん僕もそのうちの一人だ。大阪は人情の街と呼ばれるだけあって温かい人も多い。だが、囲い込む傾向があって、自由に動き回りたい僕にとっては肌が合わないと感じる機会が多かったのも事実だ。

東京にはいい意味で変な人がたくさんいる。そのような人ばかりを目にしていると、自分が変な人だとは思えない。大阪のように自己紹介をして、物珍しい目で見られることはまずないし、それが自分を試されている感がある。いい意味で居心地が悪くて、実力を磨こうと思えるし、周りにすごい人がたくさんいるからこそ受けられる刺激がたくさんあるのだ。

今日もどこかで、東京の街で自分がいかに変な人であるか合戦が繰り広げられているのだろう。自分という人間を知らしめるためにいかにして主体性を発揮するか。そうしなければこの群雄割拠の東京では生き残れない。文章を書ける人はごまんといる。その中でいかにしてあなたにお願いしたいと思わせるか。東京は主体性が問われる街だと言っても過言ではない。何か行動を起こさなければ、誰の印象にも残らない。いい意味で焦りが芽生える東京。光と影が交差するこの街で、何を成し遂げられるだろうか。今は淡々と牙を研ぎ続ける期間だ。たくさんの人から刺激をもらいながら、己の実力を高めていきたい。

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