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ううん、なんでもない

2020年のウイルス感染によってマスクの着用を余儀なくされた。どこに行っても素顔は見えない。まるでお前には本音を見せないと言われているような気がして、世界が丸ごと怖くなった。大好きなアーティストのライブも声を上げて楽しむことができない。一緒に作り上げていくものだと思っていたものが、アーティストだけのものになった。

静まり返った会場を盛り上げるためにアーティストが熱を込めて音を掻き鳴らす。彼らからひしひしと伝わる悔しさに涙するものも少なくない。演奏が終わるたびに鳴る大きな拍手は、ウイルスに対するせめてもの抵抗だ。苦しさにも似た緊張感が彼らの流す汗から伝わる。盛り上げたいと願うからこそ、張り詰めた空気がやけに痛い。叫びにも似た歌声を聴きながら、こんなはずじゃなかったのにという思いが胸の内から湧き上がる音がした。

高校時代、ずっと憧れていた3つ上の先輩が飲食店で働いていた。彼との出会いは飲食店だ。彼の丁寧な接客に一目惚れした。シュッとした顔立ちに落ち着いた佇まい。手先がとにかく綺麗で、スーツ姿がよく似合っていた。少しでも先輩に近づきたいと思って、友達とアルバイトに応募すると見事合格。二人で夜の公園に行って、ジュースで乾杯したことを今でもよく覚えている。どうやって連絡先を聞こうかと考えていたのは言うまでもない。それまで色のなかった世界に鮮明な色をもたらし、どんな物事にも100%の気持ちで打ち込めるようになった。恋には凄まじい力がある。まだお付き合いができたわけでもないのに、ほんの少しの前進が煌めく世界を形成したのであった。

先輩と一緒に働くのはもちろん、友達と働くのも楽しかった。社会人になると味わえない楽しさがアルバイトにたくさん詰まっている。遅刻をしてお局に怒られたこと、アルバイト終わりの賄いを楽しみにしていたこと、アルバイト終わりに友達と駅前で語り尽くしたこと。先輩に連絡先を聞かれたこと。楽しいの一言では片付けられない青春と呼んでも差し支えないかけがえのない時間が確かにそこにあった。

ある日、先輩から今度の週末に映画に行こうと誘われた。すぐさま友達に連絡して、一緒に喜んだ。そ私にとっては人生初のデートである。どんな服装をすればいいのか、どんな化粧をすればいいのかがわからない。アルバイト終わりに本屋さんに寄って、ファッション誌を購入して、今の人はこういうのが好きなのかぁと勝手に感心していた。だが、私がデートだと勘違いしているだけで、彼は週末の暇つぶしと思っているかもしれない。いや、マイナスなことを考える必要はない。今は彼との時間を楽しむことだけを考えようと切り替えた。

デート当日は雲ひとつない快晴だった。あまりにも楽しみすぎて、集合時間の1時前に待ち合わせ場所に着いた。とりあえずカフェで時間を潰そうと思ったら先輩がいた。どうやら先輩も早く来すぎたようだ。二人して同じことをしていることに大いに笑った。「集合時間までまだ時間ありますね」と伝えると「そうなんだよ〜でもここで遭遇しちゃったし、少し早いけど映画館に行きますか」と返ってきた。愛おしいと思った。絶対にこの人の恋人になりたいと思った。

真剣に映画を観ている先輩の横顔をずっと見ていたいと思った。映画の内容はほとんど頭に入っていない。それほど先輩の美しい横顔に見惚れていた。映画が終わってからカフェで感想を共有したのだけれど、ずっと上の空だった。先輩が私のことをどう思っているかが気になって仕方がない。でも、自分から聞く勇気はないため、その日は何も起こらずに解散した。

数回のデートを重ね、遊園地で告白されるというベタな展開で私たちは晴れて恋人同士になった。アルバイト先で先輩と会うのが恥ずかしい。先輩と後輩という関係性を超えて、恋愛関係になった。付き合う前は目を見て話せていたが、恋人という関係になってからは目を合わせられない。ちゃんと目を見て話してよと先輩が揶揄う。照れている私を見て、ゆっくりでいいからねと言う先輩の優しさが大好きだった。

お付き合いしてすぐに宇多田ヒカルのライブに行った。宇多田ヒカルの歌詞は、相手を思うがあまりに自分の思いを伝えられずに悩んでいるシーンが多いように思う。大切にしているからこそ、傷つけたくない。たとえ自身がどれだけ傷つこうとも、相手を傷つける選択をしないところが私と重なって、何度も涙を流しながら聴いた。大好きなアーティストのライブを大好きな彼と一緒に観に行ける。この上ない喜びだった。ライブ帰りに彼が「Flavor Of Life」のとある歌詞について言及した。

どうしたの?と急に聞かれると

ううん、なんでもない

宇多田ヒカル「Flavor Of Life」

これはほとんどの女性が共感している歌詞ではないだろうか。初めてこの歌詞を聴いたときになんで私のことがそんなにわかるの?と絶賛した程、核心をついた歌詞だった。

「なんで女性は言いたいことを言わずに我慢してしまうんだろうか。言いたいことがあるならちゃんと言った方がいいと思うんだよね」

女心のわからない奴めと思った。言わなければ行けれないことは理解しているけれど、言った後に傷ついている姿を見るのが怖いのだ。相手を傷つけたくないから自分を傷つける。でも、彼の言っていることは正しい。

「私は言いたいことがあったらちゃんと言うね」と返すと、「そうしてくれるとすげー助かる」と返ってきた。その日の帰り道はやけに風が痛かった。

***

彼との交際も順調で、特に大きな事件が起きることなく、大学に進学した。

彼は単位を取れずに留年したようだ。特にやりたいこともないから就職をしたくないと先輩が項垂れている。どう声をかければいいのかわからないため、テーブルの近くにあったチョコレートを差し出した。恋愛の次の着地点は結婚だろうか。彼と結婚したい気持ちはある。このまま就職をしないとなれば、私はどんな選択を取るのだろうか。

最初は無理に就職しなくてもいいと思った。いずれその気になって就職活動を始めるだろう。だから、どうなるのかを見守ることに決めた。あの日からずっと先輩は大学に行かずにアルバイトをしている。私が大学生になるまでは大学で起きた出来事を楽しそうに話していたのに、今ではアルバイトの話ばかりしている。大学や就職の話になると機嫌が悪くなって、ひんやりとした気まずい空気が流れるようになった。彼には彼の悩みがある。周りが就職活動をするようになったが、彼にはやりたいことが見つからない。

彼はとても素敵な恋人だった。連絡はマメで私の我儘にも付き合ってくれるし、寝落ちするまで電話を繋いでいてくれる。誕生日には素敵なプレゼントをくれるし、毎月の記念日も忘れない。できることなら限りある時間を彼と過ごしたいと思った。

雲行きが怪しくなったのは、彼が大学を辞めると言い出したことがきっかけだ。「大学を辞めてどうするの?」と尋ねると、「やりたいことが見つかるまではアルバイトをする」と返ってきた。やりたいことはどうやって見つけるのだろうか。少し不安はあったのだけれど、彼の人生の決断を邪魔するわけにはいかないと思って、それ以上は何も言わなかった。

彼はずっとアルバイト漬けの日々を送っている。アルバイト先の友人たちに「たかしさん大学を辞めてフリーターになったらしいけど大丈夫なの?」と何度も聞かれたが、その答えは私が知りたいものだ。アルバイトの後はずっとぐうたらしていて、やりたいことを見つけようとする気配もない。時間だけが残酷に過ぎていった。二人の未来に暗雲が立ち込める。人間は簡単に変われない。ましてや誰かが変えられるわけでもないため、私は見守ることしかできないのがもどかしくてたまらなかった。いつか動いてくれるだろうと願いながら、一緒に過ごす時間は楽しいとはほど遠い感情が芽生える。

3つ上の先輩が大学を辞めて、フリーターになった。就職活動をしたいと思っているものの、なかなか自分に合いそうな企業が見つからないらしい。私も就職活動をする年齢になって、フリーターの彼との将来に疑問を持つようになった。このままでは明るい将来は見込めない。きちんと彼に就職活動をしてもらおうと思って、彼に合いそうな企業を見つけるたびに教えたが、頑なに動こうとしない。就職したくないわけではないという彼の言い訳がすべて自分に都合のいいもののように聞こえる。だったらさっさと就職してよ。言葉にできない声が脳内を駆け巡っては、なかなか言い出せない本音を喉の奥ですり潰す。

フリーターという社会的地位以外は満足していた。誰かの悪口を言った姿を見たことがないし、周りの人からの評判もとてもいい。たくさん話を聞いてくれるし、何かするたびに褒めてくれる。だが、恋愛と結婚は違う。共働きが当たり前の時代で、私だけの収入だけではとてもやっていけないことは重々に理解している。だからこそ、彼との将来を考えると一抹の不安が頭をよぎった。

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ある日、友達に彼との悩みについて相談した。「君は小さな我儘をいくらでも言えるのに、大切なことはいつも言えないよね。言いたいことをちゃんと言った方がいいと思うけどね」と笑う。彼女は高校からの大親友で、私のことを手に取るようにわかっている理解者だ。だからこそ、私の悩みに真摯なアドバイスをくれる。

時間は流れ、私も就職活動をする年齢になった。それと同時にウイルス感染によって世界が大きく変わりつつある。マスク着用が推奨され、どこに行っても素顔は見えない。大好きなアーティストのライブも声を上げて楽しむことができなくなった。一緒に作り上げていくものだと思っていたものが、アーティストだけのものになった様は、私と彼の関係のようにも思えた。

面接は全てオンラインに切り替わり、相手との空気感もうまく掴めず、結果も惨敗ばかりだった。私がこんなに苦労しているのに、彼はアルバイト以外はぐうたらしていると考えただけで苛立ちが募る。「どうして動いてくれないの」の一言が言えない。ほんの少し勇気を出せば済む話なのに、足がすくんで前に踏み出せずにいる。そんな自分にもより一層腹が立つ。

ウイルス感染によってマスクの裏側が見えなくなった。それと比例して、私の本心がどんどん姿を消していく。いつまでこの関係を続けるのだろうか。いくら悩んでも答えは出ない。宇多田ヒカルの音楽が街に流れている。

信じたいと願えば願うほどなんだか切ない

宇多田ヒカル「Flavor Of Life」

彼を信じたい気持ちはある。でもそれが私の独りよがりだったら、なんだか切ない。考えれば考えるほどに早く就職してほしいというエゴが滲み出るのはおかしいのだろうか。

今日は久しぶりのデートだった。今日こそは自分の思いをきちんと伝えよう。そう決心して、お気に入りのワンピースとジャケットで彼に会いに行く。今日はとびきり可愛い服装だねと彼が褒める。彼の笑顔が優しくて痛い。私が下手くそな笑顔で返すと彼がこう言った。

「ねぇ、どうしたの?」

「ううん、なんでもない」

それはマスクの裏に本心を隠した精一杯の強がりだった。空が今にも泣き出しそうな顔をしている。先が見えない彼との将来を鮮明に映しているようだった。さようならの後に消える笑顔は、私らしさを掻き消していた。

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