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人生は生きやすくて、生きづらい

人生は生きやすくて、生きにくい。そのときの環境や感情によって、それまでの生きやすさは簡単に生きづらさに変わる。晴れた日に早起きができたときは生きやすいと感じ、雨の日に寝坊したときは生きづらいと感じてしまう。

どれだけ自分勝手なのだろうかと思いながらも、誰もが生きづらさと戦っているため、自分だけではないと思いたい自分がいる。人間は傲慢な生き物だ。勝手に自然を増やしたり、減らしたりするし、生き物の数も減らしたり、増やしたりする。それなのに人間を減らそうと考える人はほとんどいない。と考えると、自分がどれだけ恵まれているかがわかる。

満たされているからこそ目の前に現れる不満と毎日戦い続け、足元に存在する小さな幸せを簡単に踏みつけてしまう。人間は弱くて脆い。自分を守るために簡単に嘘をつくし、簡単に人を傷つける。見たくないものは見ないふりで、やらなければいけないことは先延ばしにする。主語を大きくするのは、ただ単に自分を正当化したいだけだ。関係のない人を巻き込んで生きやすさを生み出している。己のダサさを認められない。つい虚勢を張って、それを現実にするために、もがき続けている。

ずっと誰かに許されたいと無宗教のくせに名もなき神に祈り続けている。それは自分自身でもあるし、誰かなのかもしれない。どこまでいけば、許してもらったと思えるのだろうか。神様への祈りは、自らが犯した罪の許しを乞う謝罪のように見える。そもそも許されなければいけないのかもわからないし、犯した罪が本当に罪なのかもわからないのも事実だ。この世のルールは全て人間が勝手に決めたものに過ぎない。地球全体規模で、罪という概念は存在せず、強い奴だけが存在を許される。

許す、許さないに明確な線引きがあれば、僕たちはもっと生きやすくなるのかもしれない。だが、生きやすさだけではきっと生きることに飽きるのが目に見えている。生きづらさを味わうから生きやすさと出会ったときの喜びは大きい。人間は、儚くて、弱虫で、それでいてかわいらしさが残るのが生き物である。また僕は主語を大きくして、自分の小ささをなかったことにした。

強さとは弱さを乗り越えた回数で、弱さとは逃げた回数だ。生きやすさも生きづらさも、すべて終わったらただの過去になる。泡のように消えてなくなるものには価値がないのに、生きる意味を残そうと躍起になるのが人間の可愛らしさなのかもしれない。生きている間は誰かを愛し、愛され、誰かを裏切り、裏切られの繰り返しだ。正直者は馬鹿を見るとよく言うが、馬鹿を見たその先はどんな景色なのだろうか。どんな人間も誰かによって支えられているという周知の事実は、いつか誰かを救う糧になるのだろうか。それすらもわからないまま人生は進んでいく。それだけは誰がなんと言おうと、不変の事実なのだろう。

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