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4月は憂鬱な風が流れる

4月に入った。例年通り桜は咲き、たくさんの人たちがそれに魅了されている。新社会人、新学期、新生活、世の中にある新しいがたくさん始まるこの時期は、希望と絶望が入り乱れていて、なんだか異様な空気だ。ある人はワクワクしているだろうし、とある人は新たな門出に絶望しているかもしれない。かくいう自分は何も新しいが始まっておらず、憂鬱な気持ちで4月を迎えた。

かれこれ社会人生活も9年目である。社会に特段爪痕を残せたわけでもないどこにでもいるただの社会人だ。今はフリーランスとして働いているのだけれど、 なんとか生き残っているからこそ、ぬるま湯に浸かっている感が否めない。ピリピリした雰囲気は苦手だけれど、まだ成長物語からはまだ降りたくない気持ちはあるのだけれど、このままではまずいかもしれないと思っている。

東京はどこもかしこも人が多いため、人混みに流されてしまいそうになる。大きな建物に空が晴れず、曇天なような気持ちになっては、どんどん視界が狭くなっていく。空は広いはずなのに、東京のダメな部分にばかり心が侵されていく。まだ東京に寄りかかる場所はなく、どこへ向かえばいいのかもわからない。10代の自分が今の自分を見たら、どう思うのだろうかと、考えるだけで嫌になる。きっと掃き溜めを見るかのような目で自分を見るのだろう。

人生で1度は東京を経験してみたいと思って、30歳で上京した。友達はおろか新しい仕事も見つかっていない。フリーランスの編集者の継続的な仕事の取り方が分からない。たくさん人と会えと言われても、繋がりがないため、どうやって繋がりを作るかを考える必要がある。ライターであれば、たくさんの媒体に応募すればいいのだけれど、編集者は社内で完結している場合が多い。編集部に所属していない場所では、編集部ではカバーできない部分のおこぼれをいただく。それに対して、全力を注ぐのだけれど、役目が終わった瞬間に、またおこぼれが来るのをまつ必要がある。

先日、飲み会で編集者の仕事の話になったときに、ライターが編集者に怒りをぶつけていた。もしもライターが100%の期待を超える原稿を上げてきた場合に、編集者の存在とは必要なのだろうか。クライアントとのやりとりさえもライターが巻き取れるのであれば、編集者の存在は必要ないのかもしれないと言っていた。加えて、AIの登場である。簡単な校閲であれば、AIができるようになってしまった。そうなると、編集者とは必要なのだろうか。自信が編集者であるからこそ、この問いには真摯に向き合い続ける必要があると思った。

編集者として生き残るために、仕事を見つけたいと思いはするものの、どこへ向かえばいいのかもわからない。至るところに顔を出して、お仕事をくださいと言うのも図々しいような気がする。それぐらいの気概がなければ、東京で生き残ることはできないのかもしれない。それならば、僕は東京に向いていないのかもしれないとさえ思った。

そもそも文章を編集したいのか。文章を書きたいのか。それすらもよくわからなくなってきた。自分の方向性がわからなくなったのか。それとも元から分からなかったのかどうかは分からない。東京という荒波に揉まれ、気づかぬうちに自分の指針がどこかへ消えた。新社会人に偉そうなことは何一つとして言えないし、むしろそのフレッシュさを分けてもらいたいものだ。そもそも自分の方向が定まったことなどあるのだろうか。人生を振り返れば、生まれてからの30年間ずっと迷子だ。

どれだけ自分探しの旅をしても、いつだって答えは自分の中にしかないらしい。ともするならば、今向き合うべきは自分自身なのだろう。忙しいとか、めんどくさいとか都合のいい言い訳を並べては、やらなきゃいけないことを後回しにしてばかりいるこの現状がもどかしい。なんて自分のダメなところを受け入れているように見せかけて、きちんと受け入れることができていない今の自分が猛烈にダサい。ダサすぎるな。

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