30代のお酒の嗜み、バー文化とそこにある音楽。(最後に)

神谷さんは、3丁目MODの思い出よりも、銀座6丁目の裏路地に作ったお店、通称「裏MOD」での思い出が沢山ある。6丁目MODと書いてきたが、銀座6丁目に神谷さんのお店が出来て、3丁目は「表」MOD、6丁目は「裏」MODと、神谷さんの共同経営者の方がコピーライターなので名付けたようで、その名称は確かにしっくりくるなあ、と感心したものだ。実際に常連客からもそう呼ばれていた。
その裏MODがオープンした当初、伺った店内は、スタンディングではなく、テーブル席があり、カウンターには飛び出し椅子、あとバックカウンター上には、彼の私物の大半と思われるLPレコードが3000枚所蔵されていて、ターンテーブルが2台、ミキサーとCDJ2台設置と、オーセンティックでありながらも、神谷さんの音楽好きが、よく表れている店作りだった。
そのレコード、またCDなどを神谷さんから、「これいいよ!」という感じでかけて教えてもらうことが多かった。自分はThe Whoが好きだったのだが、いわゆるモッズというジャンルのバンドで、ロンドンには他にThe Small Facesというグループがいることを教えてくれたのも神谷さんだ。ロンドンにはウェスト・エンドとイースト・エンドという地域があり、The Whoは中産階級の住むウェスト・エンド出身、そしてThe Small Facesは、労働者階級、移民の多い地域、イースト・エンド出身という、そんなようなことも、彼が少し教えてくれたような記憶がある。ただ、そのバックグラウンドも知識として大切ではあるが、神谷さんはそのモッズの音楽を、音として好きで楽しんでいるようだった。(特にオルガン好きで、ジョージ・フェイムもフェイバリットだった)スウィンギン・ロンドンという言葉も、彼から聞いたし、その60年台の周辺のモッドな音楽に、彼の洋楽趣味のコアがあり、そこから派生して、ジャズや最近の音楽にもたどり着いている感じさえした。だから、神谷さんは、自分のお店にMODという店名を、あまり迷いがなくつけることが出来たのではないだろうかと、当時からよく思ったものだ。The WhoとThe Small Facesという比較で言えば、神谷さんはもちろんどちらも大好きなのだろうが、「マイ・ジェネレーション」や「サマータイムブルース」もよくレコードをかけてくれたけれど、本当に好きそうな世界は、The Small Facesの「オール・オア・ナッシング」でもあったような気もする。当時のイギリスの若者を代弁するメッセージの強い曲を彼は好んでいた。モッズの音もそうだが、歌詞も、引いて言えば、その精神性も好きなのだろう。それは、The Kinksの「アイム・ノット・ライク・エブリバディエルス」などを教えてくれた時にも感じたことで、The Whoだと「アイム・ア・ボーイ」やThe Small Facesだと「シャ・ラ・ラ・ラ・リー」を好んでリクエストした自分とは、違いを感じる音楽の嗜好性だとも思った。神谷さんに教わった音楽のことは、こればかりではなく、MODで知り合った元カノも大好きだったThe Beautiful SouthやグラスゴーのバンドTRAVISも、彼から教わった。どちらのバンドも、のちに自分でCDやレコードを買い集めた時期があったので、神谷さんは、バーでお酒の先生だけではなく、音楽の先生という役割も担っていたように思う。それは、決して、自分だけではなく、バーには音楽があるという前提でいえば、バーテンダーはお客様に飲んで頂いているその時の雰囲気に合わせた音楽、レコードをセレクトするという仕事も大切なことのように思えてならない。
そういえば、冬のある週末の深夜だったろうか、午前12時も回ったかという頃、神谷さんが、キャロル・キングの「タペストリー」のレコードをかけてくれたことがある。店内には男性ばかり7、8名のお客がいて、皆、酔っておしゃべりをする訳でもなく、ひとりひとり自分のお酒を楽しんでいた。それぞれのキャロル・キングの思い出があったのかも知れないが、彼女の代表曲「君の友だち」が流れた瞬間、誰が始めということもなく、音楽と一緒にささやくように歌い始めた人がいた。そして、そのあとに続くように、となりの客が、また後ろのテーブルのお客が、静かに歌い出し、やがて、神谷さんも含め、その場にいた全員が合唱するという少し不思議な、だが、暖かい空間が生まれていた。音楽とは不思議だ。誰と示し合わせた訳でもなく、神谷さんも、さあ、キャロル・キングで歌いましょうと、当たり前だが言った訳ではない。音楽で知らない人同士、もちろん常連客もいたが、とにかく音楽で人はつながれるという、とても印象深い体験をした。もしあの時、キャロル・キングをまったく知らないお客がいても、その空間の中では、微笑ましい、心穏やかな気持ちになれたのではないだろうか。このことは、オーセンティックなバーでは、あまりあり得ないことだとは思うけれど、神谷さんの裏MODならではの出来事だったので、よく思い出すことだし、ここに書き留めておきたかった。
あと、神谷さんは料理が上手で、裏MODにはガスコンロのある調理スペースが設けられていて、フードメニューもお店の売りになっていた。例えば、彼の作るプレーンオムレツは、本当にとても美味しく、見た目もとても美しく、一度、会社の先輩の女性をお店に連れて行った時、そのオムレツを食べて、「ここより美味しいオムレツは、私の食べた中で他に1軒くらいしか知らない」と絶賛していたので、本当に美味しいオムレツだったのだろう。また、スープのたぐいも。定期的に創意工夫された、他のお店では食べたことのないスープが提供され、そのどれもがとても美味しかった。ミキサーで下ごしらえをしているのも彼だったし、料理メニューも基本、神谷さん主導だったように思う。あと、お店の外で、一斗缶で燻製した料理。それがどのくらいの種類があったか忘れてしまったが、それも美味しかった。3丁目MODでは色々出来なかった、神谷さんの音楽の趣味性や、料理の趣味性を活かすことが出来る裏MODは、本当に彼がオーナーとして持ってみたかったお店が体現出来たのではないだろうかと、今、振り返って思う。
また、少し触れておきたいのは、この裏MODで、神谷さんと昔からの常連のお客さんが、銀座にボランティアクラブを立ち上げる計画をしていて、そこでの活動に結果参加することになったのだが、それは、また別のテーマで取り上げることにして、とにかく、そのボランティアクラブの初代会長に神谷さんが推薦してくれていたということ。仕事を辞めた直後だったからという時間的に余裕があるという物理的な理由もあったのだろうが、リーダーシップの経験を積んでみたら、という思いと、会長としてのタスク、運営の手腕に、もしかしたら可能性を感じていてくれたのかもしれない。会長に選ばれた時はとても辛い、責任の重いイメージで、少しイヤイヤという感じではあったが、会長職当時、自分に誰からも批判もなく、神谷さんも、よくやってくれているという認識だったので、この件に関して、副会長として彼もサポートしてくれたこと、会長としてやっていけると認めてくれたことが、ありがたかったし嬉しかった。あと、少し自信にもつながったように思う。
30代のお酒の嗜みと題して書いてきたが、ひとつには、バーで飲むということ、バーとはどういうところか、その入り口を知れたことが挙げられる。MODでは、ボトルキープも「付け」の世界も教わった。また、改めて、ビール、白ワイン、ジントニックだけの世界から少し脱却出来た。好きなジンもそれなりに違いや、飲み方も楽しめるようになったし、ウイスキーもシングルモルト、ブレンデッドだけの世界ではなく、もうその知識は、バー通いから久しく離れてしまっているので失念してしまったが、色々なウイスキーを(オールドボトルも含め)ストレート、ロック、トゥワイスアップ(ウィスキーと水の割合が1:1の飲み物)で楽しんだ。MODでウイスキーを知れて、とても好きになったので、もう神谷さんのいるMODは彼が会社を辞めてしまい、失われてしまったが、これから来たるべき50代、60代に、また、MODのようなバーに巡り会いたいものだと思っている。そこにある音楽、それはまさにそうで、お酒の嗜み方には、共にそこに音楽があると最良ということも学んだ。これもサラリーマン飲みで、居酒屋の有線放送ではない、バーのように、先にも書いたようにお店の状況、雰囲気に合わせ、バーテンダーがレコードをセレクトするという世界は、30代のお酒の嗜み方に必須とも言えるように思う。ここで書いてきたことが、神谷さんのMODで知れて、本当によかったということを、彼はこれを読んでいないのかも知れないが、感謝の意味も込めてまとめることができてよかったと思っている。神谷さんへの感謝状を、大げさだが渡せたのかも知れない。もちろんMODで知り合った人たちすべてにでもあるのだけれど。

この連載は「人生を折り返す前に」と称して、手帳を元に書き起こしたマガジンの基本、無料の記事ですが、もし読んでくださった方が、興味があり、面白かったと感じてくださったならば、投げ銭を頂けると幸いです。長期連載となりますが、よろしくお願いいたします。

ここから先は

0字
この記事のみ ¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?