フレディと魁夷。分かりあえただろう二人。それは夢のようだけれど。

先日の日曜日、近所のシネコンで映画を観てきた。自分が好きなロックバンドのボーカルの話だったので、興味を持っていたのだけれど、その鑑賞後の感じ方が、かなり自分なりに忘れられないものだったので、そのことを。

クイーンのフレディ・マーキュリー。洋楽好きの人でなくても、その名前は知っている人も多いだろう。映画のタイトルは「ボヘミアン ラプソディ」だが、クイーンというよりも明らかに、フレディ・マーキュリーから学ばなければいけない沢山のテーマがあった。

フレディの生い立ちや成功までのストーリーを、時系列に挙げてもあまり意味がないと思うので、自分なりの要点を書いていきたい。

彼は、自分の才能がどういうものかは客観的には分からなかったけれど、自分には才能があることを知っていた。それが周りの人たちに認知されないことを、とても苦悩していた。

彼のやり方は独特で独創的で、本当に誰も真似できないし、そのことを彼は自分で分かっていたのだけれど、誰かに何処かでコントロールして欲しいという欲求があった。それは彼女や結婚したいパートナーや、昔からのバンドのメンバーだったりするけれど、決して、エージェントではなくショービジネスの大物プロデューサーでもなく、本当に自分の手の届く範囲での理解者を欲していたようだった。

彼のやり方は時にはソロ活動を選んだりして、本当の自分の良さを引き立たせる周囲に、近くに必要な人物を切り捨て、間違うこともあった。彼は異才で異能だが、そういう意識が自分になかったのだろうと思う。だからそれをこっちに行ったら違うとか、こっちに向かったら本当に輝けるという、周りで、近くでサポートしてくれる愛ある人たちが必要だったのだろう。その過ちの繰り返しの中で、傷つき、孤独になり、救いを求め、なんとか周囲の本当に彼にとって必要な人たちに赦しをもらって、段々と間違わない自分にたどり着いた人生だった。

この映画の彼らしい、汚れていない、間違ってもいない人生最大の見せ場は85年のウェンブリーアリーナーで行われたライブエイド20分のステージだった。

彼はライブエイドのセットリストの中で、ピアノの引き語りをしながら自分の過ちを知り、その先の自分の人生を恐れ、行き場のないような不安や絶望を歌った。コール&レスポンスのない曲なので、仕方がないのだけれど、本当に孤独だった人生の辛い時期があったことが観衆に伝わって、何か感じてもらえたのではないだろうか。いや、ないだだろうかというよりは、そこをこの映画を観た全ての人たちに感じて欲しいシーンだった。

その自分の罪に気づき、こうであってはいけないという曲を自分のために、そして、応援してくれるファンのために歌った後、一転してバンドメンバーの元に戻り、また昔からの盟友とのプレイ、パフォーマンスを楽しむようなステージを繰り広げた。

君のことが面白くない人もいるだろう、俺のことが嫌いなヤツもいるだろう、でも、そこを相手にしなくても俺たちは大丈夫、そんなフレーズを何度も繰り返して歌った。それは、なんとか自分にそう言い聞かせるということではなく、時代の反逆者でもなく煽動でもなく、これからの世界は、君の世界は、大丈夫だよ、というメッセージで、それを観たウェンブリーの観衆始め、世界中の衛星中継でライブを観た人にきちんと届き、人生に於いてもバンドのステージに於いても、本当に世界規模で共感してくれる味方を見つけることが出来た。彼はエイズで亡くなってしまったが、本当の幸せを確かに感じることが出来たのではないだろうか。

そう考えると、ライブエイドの20分間は、彼の人生に本当に必要だった。改めてそう感じることの出来る映画だった。

そして、このフレディの映画を観た後、ふと昨年の秋に観た東山魁夷展のことを思い出した。フレディに異才を感じたから異才ならばということで、自分は魁夷を思い出したのだろうけれど、フレディは早逝だったり、魁夷は最後の最後まで人生を全うして、晩年の唐招提寺御影堂の襖絵のような大作をしっかり残した違いはあるけれど、やはりフレディのライブエイドのパフォーマンス、魁夷の唐招提寺という作品には、同じ価値を感じてしまう。どちらも、その時自分が出来る、本当に出来る限りを尽くしたことには、変わりがない。

生きた時代は違ったのかもしれないが、もし、フレディと魁夷がお互いの曲や作品を観たら、実際に会わなかったとしても、どこかで共感することがあったのではないだろうか。そうしたら、それぞれの孤独を少しは和らげることも出来たのかもしれない。さらに言及すれば、異才は異才だけにしかわからない悩みや生きる辛さや、苦悩があると思ってしまえてならない。

改めて、異才を持ち合わせた人間には、自分を分かってもらう理解者がやはり必要という結論には、変わりがない。

そして、今、自分の置かれている状況の中で、それとなく気づき始めた本質的な悩みを思い出した。それは、このnoteの有料マガジンで、きちんと書き上げなくてはいけない大切なことなのだけれど、自分は一流のミュージシャンではないし、文化勲章を授与される画家ではないのだけれど、これからの人生の中で、どうしても抱えていかなければいけないことを、この文章を書いている時に感じてしまうし、また、良き理解者にめぐり合い、色々な人たちに支えてもらいながら、自分らしさを自然に出せて、全く比するものはないのだけれど、いつか自分なりのフレディのライブエイド、魁夷の唐招提寺の襖絵のような作品を残してみたいし、それは少し不安もある道のりでもあるが、でも、確かな希望の道でもあるような気がしてならない。


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